清朝の時代の中国の特徴とは?徹底解説!

清朝の時代の中国の特徴とは?徹底解説!

この記事では清の時代にいかに中国の社会が変わっていったのか?というお話をしたいと思います。中国の歴史の中で清は近代から現代に移り変わっていくごろの王朝です。清の時代の社会の変化について知ることで今の中国社会を理解するのにも役立つかもしれませんよ!?

清朝の統治構造

イデオロギーとしての徳治主義

清朝では皇帝による統治が行われました。清朝における皇帝とは「最も完璧な人格を備え、全世界を家とみなして限りない愛情をほどこそうとする」人間とされました。これは「徳治主義」と呼ばれる清朝で支配的なイデオロギーでした。徳治主義の下、徳の高い者(皇帝)には徳の低い者(皇帝以外)を教化する義務がありました。

官僚制

いくら全能の皇帝でも自分だけで広い中国をで支配するのは不可能です。そのために必要だったのが官僚です。

中国では宋代以来、科挙に合格した者のみが官僚になることができました。官僚の有資格者にならなければ政治に参加することさえできなかったのです。

科挙は誰でも受験可能な試験でしたが、実際に合格する人物は裕福な家庭出身の人間ばかり。家庭教師を雇ったり、膨大な暗記が必要だったり、全部で10回以上の試験に合格しなければならなかったりと合格までのコストが非常に高かったからです。

すべての試験に合格すると(去勢されたのちに)晴れて官僚として各行政機関に配属されます。中でも軍機処は直接皇帝が執務をとったため強大な権力を持ち、官僚たちの憧れでした。

しかし、清朝の官僚制度はコンパクトで、県レベル以下には税金を取る以外、何もしませんでした。あくまで中央で権力を握っていたのが官僚だったのです。

郷紳

清朝は農村に自治を認めていました。その農村自治を主に担当したのが郷紳です。郷紳とは名誉と財産を兼ね備える知識人のこと。地主である上に学問を備えていたため大きな権威を持っていました。

郷紳は農民の間の利害調整やインフラ整備などを主導する行政官としての一面も持っていました。現在では郷紳は農民を搾取する悪代官的なイメージが先行していますが実際には行政官のような役割を果たし、国家と農村の間を取り持っていました。郷紳は社会の緊張関係を過度に高めない構造的安全弁であったと考えられています。

次第に顕著となる不安定要因

一方の中央政府では乾隆帝の時代になると腐敗が蔓延するようになりました。和珅という官僚は腐敗に腐敗を重ねて、当時の国家予算三年分の財産を得たとも言われています。しかし、当時は腐敗への制度的な歯止めがなく、1つの腐敗が大きな腐敗につながりました。底無しに続く腐敗は社会の不安定要因になっていきました。

人口増加とその帰結

中国における人口の歴史的推移

中国の総人口は清朝建国時は5億人でしたが、時代が進むにつれ、驚異的なペースで増加します。特に20世紀に入ってからの人口増は目ざましいものでした。

人口増加の傾向は17世紀から始まります。面白いのが中国では工業化以前に人口増加が始まっているということです。一般的には産業の工業化があってから人口増は始まると考えられているため中国では順番が逆になっています。

要因としてはトウモロコシやさつまいも、ピーナッツなどの普及で食糧事情がよくなったからだと考えられています。

F.ブローデル(アナール学派)は別の観点から人口増を説明しようとしています。それは地球温暖化です。世界の温暖化が人口増化に大きな影響を及ぼしているのではないかとして、事実18世紀は世界各地で人口が増加しています。

18世紀以降の人口増加は清朝に土地の細分化をもたらしました。元々、中国においては一人当たりの耕地面積は小さいものでした。費孝通が行った調査によれば、雲南省でのとある村の1世帯あたりの耕作面積はたったの0.4ha!

村の耕作面積全体でも現在のアメリカの農家1世帯平均と同じ面積でした。収穫量も同じというような状況。

同じ食物量でも中国の方が圧倒的に多くの人を養っていたことになります。つまり、当時の中国では食糧不足になる可能性が相対的に高かったことになります。しかしこのことがすぐに社会不安の上昇につながったわけではありません。

当時の中国の農民の技術は原始的というよりも、むしろ一定の技術を持っていて、園芸的。ある程度は安定的な収量を確保していたと言えるでしょう。

しかし、農機具だけは原始的で土地を休ませる発想はありませんでした。土地には人糞だけ与え、品種改良の取り組みもほとんどしませんでした。次第に人口増加に対応できなくなっていきます。18世紀中の中国人口は17世紀から2倍になりましたが、当然のように耕作面積は2倍にならず、食料事情は苦しくなっていきました。

しかし、いたずらに耕作面積を広げようとすることが、食糧事情をよくさせることにはつながりませんでした。人口増加によって森林を開墾した結果、洪水が多発するようになったからです。

そもそも食糧事情がよくなかったのは本当かという疑問も投げかけられています。そもそも食糧事情が悪かったならば、なぜ人口が増えたのかの説明ができないからです。

人口の流動化とその帰結

清朝時代から活発になった移住や秘密結社、匪賊の人口増加は清国内で大規模な流動化をもたらしました。

農村から大挙して移住し、新たに開墾を始めました。多くが東北地方、台湾、四川盆地などが中心的な移住先。海外に行った人もいます。

人口の流動化によって、伝統的な農村地縁・血縁関係から解放された人々が増加します。社会を流浪する人々を取り込もうとしたのが多くの秘密結社や匪賊でした。武力を持つ秘密結社や匪賊が蔓延することで、中国社会における暴力性が高まりました。ちなみにカンフーが身を守るための手段として現れたのもこの頃なんです。この社会の変化をどのように治めるのかについて、清朝は頭を悩ませました。

農村への商品経済の浸透

穀物生産から商品作物への転換

19世紀に入ると農民たちは自分で食べる分の食糧とは別に余った分を市場で売るようになっていました。

人口が増え、都市が発達することで市場が発達します。そのため高価格で販売できる商品作物の栽培にシフトする農民が増えていきました。

商品作物とは綿花、ナタネ、スイカ、ピーナッツが代表的。商品作物に栽培の中心が移ることで農民の生活は市場に結びつくようになりました。

農村への商品経済の浸透

農民たちが商品経済に浸透したことが農民自身にとってプラスだったのでしょうか。基本的には商品作物の方が農民にとって大きな利益をもたらします。しかし他方ではマーケットと緊密に結びつくことによって生まれる危険もありました。生活がマーケットの動向に大きく左右されることになるからです。

作物の値段は需要と法則によって決定されます。自家用の穀物生産をやめてしまって、商品作物に特化した場合、マーケットの動向次第で生活に必要な穀物が手に入らない可能性が常に生じます。

しかも、商品作物を育てるには肥料を多く投下しなければならず、資本が必要でした。高いコストを支払った上での不作や市場価格の下落はリターンが得られず、生活は悲惨になります。その結果、土地を手放したり、農業労働者に没落したりする人々が増えました。商品経済の浸透は農村社会を不安定にさせ、貧富の差を拡大させました。

社会関係の緊張

不在地主化

先述のように郷紳たちは権威を盾にインフォーマルな行政官としての役割を持っていました。争いの調停や学校の建設などがその役割です。

しかし、郷紳たちは19世紀になると農村には居住しなくなります。理由の一つ目は農村の治安が悪化し、安全を求めて都市に移住したから。二つ目は都市の商業や農業に投資するために都市に移住したからでした。社会の構造が変化する中で不在地主化のプロセスは不可逆的に進んでいきました。

台頭する新たなエリート

教養と名誉を兼ね備えたエリートが農村を離れたことで新たなタイプのエリートが農村に登場します。

そのエリートとは商人や高利貸、教育を受けていない指導者などです。彼らは郷紳とは似ても似つかない人々。新たな指導者層の権威は武力や経済力、単なるずうずうしさから来ていたために、彼らには温情が欠けていました。

それまで摩擦や衝突を緩和していた郷紳が消えたことで、農村での社会関係が緊張していきました。これらの現象は18世紀以降、急激に起こったのものではなくて、緩やかで長期間に渡る変化だったと考えられています。

革命は不可避だったか?ー革命からの「逆算」に伴う問題

現在語られている物語は清朝がどんどん衰えていき、最終的に革命(辛亥革命)が発生したというもの。

しかし、この物語は恣意的のようにも思えます。革命を起点にして、そこから歴史を逆算的にストーリーを組み立てているように思えるからです。

ここでの問題は2点。1点目が、清朝は本当に衰退していたのか。2点目が、革命は不可避であったのかです。清朝が衰退したことは農村における変化で説明できるかもしれませんが、衰退が革命を不可避的にもたらしたのかを断定することは困難です。

これまでの20世紀中国近現代史は20世紀に起こった革命を説明するために18世紀あたりの歴史を暗いタッチで描き過ぎているのかもしれません。もしかしたら将来、清朝末期は活気にあふれていて、革命は偶然の要因によって発生したのではないかとの説が生まれるかもしれませんよ。