【必見】中国目線で日清戦争を解説するとこうなる!

【必見】中国目線で日清戦争を解説するとこうなる!

この記事では日清戦争を中国の目線から理解していきたいと思います。中国からみて日清戦争がどのような戦争だったのかを理解することでより深く日清戦争について考えていきたいと思います。

事件の概要

戦争の勃発までー朝鮮をめぐる日本と清朝

事大党と独立党

日清戦争の直接の原因は朝鮮をめぐる日本と清との対立でした。当時の朝鮮では事大党と独立党(開化派)が激しく対立していました。

事大党は保守的なグループ。清朝からの支援を受けていました。後者の独立党は日本からの支援を受け、朝鮮の開放を望んでいました。

甲申政変(1884年12月)

そんな中、独立派・金玉均は日本からの支援を受け、クーデターを起こします。これが甲申政変です。甲申政変の結果、事大党政権が倒され、開化派による政権が誕生しました。この政権は日本の傀儡政権。日本に従順な政権を朝鮮に作り、朝鮮が清から独立させることを狙っていました。

清朝は当然のように反発。事大党からの要請を受け、朝鮮に出兵。金玉均の政権を打倒しました。甲申政変による開化派の政権はわずか3日で終焉しました。

開化派リーダー・金玉均はクーデターの後、日本に亡命します。日本では福沢諭吉の保護を受けました。

福沢諭吉は彼を高く評価し、慶應義塾で初めての朝鮮人留学生として迎えるなど歓待しました。金玉均は最期、上海で暗殺されますが、東本願寺で葬儀が営まれるなど日本で愛された人物でした。

甲午農民戦争(東学党の乱、1894年春)

日本はこれで朝鮮を諦めるつもりはありませんでした。次なるチャンスは甲申政変から10年後の甲午農民戦争の時にやってきました。(別名:東学党の乱)

朝鮮で勢力を伸ばしていた東学党が地方役人の圧政に反旗を翻しました。東学党とは儒教や仏教などをミックスさせた宗教のことです。

余談ですが、太平天国の乱を起こした拝上帝会など、西洋からアジアにキリスト教が流入し、土着の宗教と混ざり合うと、反乱の衝撃が生まれるのかもしれませんね。

大規模な反乱に驚いた朝鮮は清朝に出兵を要請します。これに対して、日本も乱の鎮圧のために軍隊を派遣します。

日清の出兵が揃うところですでに反乱はすでに終了していました。両者は出兵の大義名分を失ったことになります。しかし、両国はすごすごと軍を撤退させるつもりはありません。

日本はここで清朝と朝鮮をめぐる戦いに決着をつける覚悟。挑発を何度となく続けると同時に、清朝に対する従属関係を破棄するよう朝鮮に迫ります。

要求が飲まれないことがわかると日本は朝鮮を支配下に入れます。これに清朝が反応し、宣戦布告がないまま日清戦争が勃発しました。

戦争の経緯

1895年7月25日、日本軍が豊島で火蓋を切ります。大方の予想は日本の劣勢。簡単には勝てない相手だと考えられていました。なぜなら清朝の北洋艦隊が日本海軍を勢力で上回っていたからです。なんでも賭け事にしたがるイギリスでは開戦当時、7対3で清朝の勝ちとのオッズがかけられていたとのこと。

しかし、いざ戦闘が始まると清朝軍隊の弱体ぶりが明らかになります。黄海海戦や平壌の戦いなどで清朝軍は連戦連敗。あまりの負けっぷりに清朝軍は自分で自分にびっくり。

ついに日本軍は直接北京と天津を攻撃しようとします。ここで清朝は講和条約締結を求め、日清戦争は日本の圧勝となりました。日清戦争の講和条約は結ばれた地名から下関条約(中国名:馬関条約)と呼ばれています。

下関条約と三国干渉

下関に集まった両国の交渉団。日本全権が伊藤博文、中国全権が李鴻章です。条約では

  • 朝鮮の自主独立の確認(清朝属国の終了)
  • 遼東半島・台湾・澎湖列島の日本への割譲
  • 銀2億両(tael、1tael=37.3g)
  • 重慶など5港の開港

が決定されました。清朝からせしめた大きな賠償金を利用して、日本はこれ以降、産業発展への道を歩み始めることになりました。

しかし、条約締結から間も無くロシア・ドイツ・フランスが下関条約に干渉してきます。三国干渉です。この三国干渉で問題になったのが遼東半島でした。

三国は遼東半島が日本に割譲されることは朝鮮の独立と東アジアの平和に大きな障害になるとして朝鮮を遼東半島に返還することを要求します。

結果的に日本は三国の圧力を前に要求を飲まざるを得ず、遼東半島は3000万テールで買い戻されました。

清朝はこの戦争で大きなダメージを受けました。最後の属国・朝鮮や台湾も失った上に当時の国家の歳入の3倍もの賠償金を支払い、国家財政は破綻します。同地中興以来の自強の成果がいかに虚しいものだったかバレてしまいました。世界の中心であるはずの清朝がガラガラと音を立て崩壊していきました。

清朝の対応

日本の脅威への対応

この戦争に対して清朝はどのように対応したのでしょうか。

清朝は日本の台湾出兵以来、日本の領土的な警戒心を常に抱いていました。事実、明治政府は対外膨張を進めていました。

明治政府は廃藩置県を行った1871年の翌年、琉球の外交は日本国外務省が行うと発表しました。いわゆる琉球処分です。それまで薩摩藩と清の両属関係にあった琉球を大日本帝国への単属支配としました。

日本軍の台湾出兵

1874年には台湾先住民族討伐を目的に台湾出兵を行います。清朝はこれに特段反応せず、日本は琉球の単一支配を事実上清朝に認めさせることができました。

日本の台湾出兵に対し、清朝は日本に強硬な姿勢を取ることもできました。しかし、当時、清の周りではフランスがベトナムに手を伸ばし、ロシアが新疆に手を伸ばしていました。日本にかまっている余裕がなかったのです。

その代わりに清朝は海軍の増強に着手します。データを見ると、1880年から清朝海軍の増強ぶりが著しくなっています。

壬午軍乱

清朝の中では壬午の変での無策ぶりが明らかになり、危機意識が高まりました。この時から、清朝の中で朝鮮半島を日本から守らなければならないと考え始めました。朝鮮の中の清朝派・事大党へのテコ入れをはかり従属関係を強化しようとします。

しかし、海軍補強は1888年からはストップしました。その理由は資金不足。時の最高権力者・西太后の誕生会や彼女の隠居先である頤和園に海軍費用を流用していたのです!頤和園を建設するために新しい戦艦の建設はおろか現存する戦艦のメンテナンスもできなくなりました。

戦争か和平か

その一方で日本は海軍を増強させ、日清戦争勃発時には日清の海軍力は互角レベルでした。日本と清朝との間で一食触発の状態になると、清朝の内部は主戦派と主和派とに別れます。

主戦派

主戦派には当時の若き皇帝・光緒帝や軍機処の大臣たちがいました。彼らは西太后と対立していたために戦争を利用して西太后を弱体化させようとしていました。清義派の官僚たちもこちらに属していました。

主和派

一方の主和派は西太后と李鴻章など。李鴻章は当時、軍と外交の最高責任者です。他にも総理衙門の役人たちも主和派です。

西太后は戦争をなんとか避けたがります。というのも、彼女の還暦祝賀会が間近に迫っていたからです。

問題は李鴻章の態度でした。李鴻章はこれまで洋務派官僚の中心として清朝軍の近代化に尽力してきました。

にもかかわらず、彼はここで戦争を避ける態度をとっています。なぜでしょうか。それは政治的保身に加え、実際には李鴻章自身が自分たちの軍隊が張子の虎であることを知っていたからではないかと考えられています。洋務運動で増強したはずの清朝軍も実際に欠陥だらけだったのです。

李鴻章は自分が作り上げた軍隊が強いからこそ権力を持てていました。だからこそ、国内向けには強硬姿勢を見せつつ、対外的には妥協するといった矛盾した姿勢を見せることはできません。彼は開戦に踏み切らざるを得ませんでした。

清朝は日本との戦争を避けようとロシアとイギリスの調停に命運をかけます。ロシアは日本に対して撤兵勧告を二度行います。日本の回答は朝鮮の内乱が治れば撤兵するとのこと。ロシアは結局傍観するだけでした。イギリスも日本に妥協します。日清戦争の調停はうまくいきませんでした。

清朝の敗北の諸要因

戦争という行為は経済や社会に深く関わる以上、単一の要因を求めることはできません。ここでは2つの要因にふれておきましょう。

要因①:西太后による浪費

1つ目は西太后による海軍費用の流用が海軍増強に大きな制約を課していた点です。なんと海軍費用の半分が西太后関連の事業に流出していました。これは国家の金が自分の金になる専制支配体制では仕方のないことかもしれません。

その結果、軍艦の補修もままならず弾薬も不足することになります。最大の戦艦・定遠には弾薬が3発しか積まれていませんでした。

要因②:軍近代化の不徹底

李鴻章に代表される洋務派による軍の近代化が極めて不徹底でした。清朝の軍隊には近代軍隊には必須である物資の補給のための輜重部隊や工兵部隊、医療班が存在しませんでした。

洋務運動は西洋の文明を丸ごと全部ではなくつまみ食い的に取り入れて近代化を図るものだったからです。しかも、軍事力そのものを重視しない態度もとっていました。そのため清朝が西洋の軍事技術を全面的・体系的に導入しなかったのは不思議なことではないのです。

武器や戦術だけでなく将校や兵士たちの態度にも注目する必要があります。近代戦争はその国家の運命がかかっています。しかし、日清戦争当時の清朝軍人の態度は近代戦争に対する態度としては極めて不適切でした。

清朝軍隊はよく逃亡しました。しかも軍内で私的な商売をする者までいました。清朝ご自慢の北洋艦隊を指揮していたのが丁汝昌提督。彼は軍の用地の中に自分の部下用の家を建設し、部下たちを住まわせ、家賃収入を得ていました。威海衛の海軍基地の中ではレストランなどを作り、その売り上げを自分のポケットマネーにしていました。

丁汝昌のように軍内と私的な会計が分けられていない状態では強い軍隊を作ることなど不可能です。軍隊は私的な利益のために活動し、兵士たちは国家ではなく、自分たちの利益を守ってくれる親分に忠誠を尽くすようになっていたからです。

日清戦争の歴史的評価をめぐって

二つの異なる軍隊の戦いー傭兵軍と近代的軍隊の間

日清戦争はまったく異なるタイプの軍隊が戦った戦争でした。近代的軍隊に変貌を遂げた日本軍と傭兵軍隊としての性格を強く帯びた清朝が戦ったからです。

近代的軍隊とはフランス革命におけるジャコバン派の努力によって初めて歴史の舞台に現れました。近代軍隊ができるにはいくつかの前提条件が必要です。

その条件とは

  • 国家が社会の末端まで支配し、国民を監視できること
  • 国家が国民を社会の民衆を中央集権システムに組み込めること
  • その結果、国家による全面的な動員が可能なこと

以上の条件に加え、国家は民衆に政治的、経済的権利を与えます。そのため、国家は民衆と御恩と奉公の関係を結びます。そうして、国家は国民にに兵役の義務を与えることができるようになるのです。

政治権力への参加の可能性を与えながら国民に兵役の義務を与えることで、彼らに「国民」としての自覚を持たせ、国家に対する一体感や忠誠心、自己犠牲の感覚を備えた軍隊を生み出すことが可能になりました。

日本は以上のような近代的軍隊を作ることに成功していました。

しかし、清朝にはただ自分が食いつなぐこと、時に略奪すること、雇ってくれる親分に忠誠を尽くす兵士ばかりでした。

見かけは新しい兵器で武装されていた清朝も兵士は古い時代のままでした。兵士の入隊理由も給料と食事がもらえるからとの理由ばかりです。

彼らは戦場でのリスクを出来るだけ回避しようします。日清戦争の後の1910年代には軍閥が抱える兵士の逃亡率は15%から25%にまでに及びました。兵士の60%がいなくなった部隊もあるほどです。

日清戦争は二つの異なる歴史的段階に属する軍隊が戦った戦争だったのです。

中国における日清戦争の歴史的評価

最後に日清戦争が中国でどのような評価をされているのかを確認します。現在の中国の歴史教科書には

日清戦争は日本の支配者が膨張政策を押し進め、密かに中国侵略を企てていたことの必然的帰結であった。明治政府は成立すると膨張と軍の増強を最高目的とした。近くて最大の略奪対象であると中国を見て、農民と労働者の不満をそらすために行われた戦争なのである

と書いてあります。日本が帝国主義的侵略者であり、中国はその被害者であるとの解釈です。

ところが、近年台湾では異なる評価が行われています。下関条約100周年を記念して1995年に日清戦争を再解釈しようとする運動が台湾で行われました。

そこで台湾・民進党は下関条約を日本の植民地統治が始まり、台湾の近代化の契機だと考えるようになりました。民進党は中国から独立したいと考える人々です。

彼らは歴史の中に中国大陸とは異なる台湾人としてのアイデンティティの根拠を歴史の中に見出そうとします。台湾は日清戦争を契機に大陸とは違う道を歩んできた主張したいのです。日清戦争に関する評価は中国国内において濃厚な歴史的色彩を持っています。