中国はいかにして社会主義国となったのか?

中国はいかにして社会主義国となったのか?

この記事では中国がいかに社会主義国となったのかについての過程について解説しています。扱う年代は1949年から1956年です。建国当初、中国は社会主義を積極的に進める方針をとっていませんでした。しかし、毛沢東によってその方針は覆され、社会主義化を進めていきます。なぜ毛沢東は方針を変えたのか?そして中国はどこへ向かったのかについて詳しく解説していきます。

新国家成立とその性格

第二次世界大戦後の内戦に勝利した中国共産党はソ連のスターリンからの圧力もあり、国家建設を急ぎます。

しかし、中国共産党が広大な中国全土を統治することが非常に困難でした。長きに渡る内戦で疲弊している上、国民党を完全に打ちのめしているわけではなかったからです。

そこで共産党はソ連に統治の方針を習うことにしました。国家の運営方針についてはスターリンからヒントを得た「人民民主主義」による統治を行うこととします。これを中国では「新民主主義」と呼びます。「新民主主義」では労働者階級と農民の同盟が基礎になります。

新民主主義の旗印のもと、様々な団体の代表が人民政治協商会議に集合します。この会議がこれからの中国政治の母体となっていきます。

人民政治協商会議では「共同綱領」が採択されました。そこには「社会主義」の言葉はありませんでした。新生中国は、その船出の時には社会主義を目標には掲げていなかったのです。

しかし、これはマルクス主義の立場からすれば社会主義が最初に掲げられないことは最もなことでした。社会主義や共産主義は資本主義が最も発展した形だと考えられていたからです。

資本主義が発展していない中国で最初から社会主義を目指すことはセオリーに反していたのです。

遠い将来の目標としての社会主義

そのため中国にとって社会主義は極めて遠い目標でした。この状況を毛沢東も把握しており、1950年6月23日にはこのように述べています。

将来国家の経済事業と文化事業が大いに繁栄し、さまざまな条件が備わり、全国の人民が納得し、みんなが賛成した暁には、悠々と、適切なやり方で社会主義の新しい段階に入ることができる。

経済復興期の諸政策 

ここでは建国当初の中国の経済状況を見てみましょう。

建国当時の中国は依然として遅れた農業が経済の中心にどっかりと腰を下ろしていました。そこで毛沢東は朝鮮戦争2日前に

まず社会主義建設ではなく、戦後復興と経済建設を行うべき

と発言して、経済政策を重視します。確かに経済は徐々に成長中ではありましたが、全面的な資本主義とは到底言えない状態でした。

土地改革

朝鮮戦争が続く中、政府は土地改革を行います。地主から農地を取り上げ、零細農民に土地を配分しました。これによって中国農村の景色は様変わりします。小作農が増加したからです。

反革命鎮圧運動

一貫道(新興宗教)をはじめとする反革命分子に対する弾圧はとてつもない規模でした。1950年10月に開かれた全国公安会議では全国民の0.1%の殺害が決議されたとされています。

反革命鎮圧運動は政治的に設定された一定数を反革命分子として(冤罪でもいいから)仕立て上げ、殺すという方策が採られ、凄惨を極めました。

三反五反運動

三反五反運動とは三反=汚職、浪費、官僚主義、五反=賄賂、脱税、情報漏洩、手抜き工事、公共財の窃盗に「反」対するための運動です。

特にここでは共産党から民間企業への締め付けが厳しくなりました。民間企業の幹部が消滅します。これに加えて、外国資本や国民党官僚資本の接収と国有化も行います。

この結果、毛沢東は社会主義建設への環境が整ったとして、社会主義に向かってアクセルを踏むことになります。

早すぎた(?)社会主義改造

「過渡期の総路線」:1953年6月

毛沢東は1953年6月に「過渡期の総路線」を提起して、新民主主義を放棄し、社会主義建設を推進しようとする動きです。新民主主義を捨てた点で、これは毛沢東による「公約違反」です。なぜ毛沢東は「公約違反」を行い、新民主主義を放棄したのでしょうか?

まず三反五反運動でブルジョワジー階級がいなくなったという事実があります。加えて、土地改革によって農業生産が停滞していたため、農業の規模を大きくすることを目指したからです。

社会主義への環境が整備されたことと農業生産への推進力を与えることが毛沢東に社会主義路線へと舵を切らせる原動力になったのです。

それはつまり共産党による権力の独占、商工業の国有化、農業の集団化を目指そうとしたものでした。

社会主義改造の強行 

共産党は社会主義を進めるために商工業の国営化と農業集団化に着手します。

商工業の国営化では国民党が持つ国有企業の接収や民間企業の国有化が引き続き進められました。この民間企業の国有化は公私合営とも呼ばれ、共産党による事実上の乗っ取りを意味していました。

農業集団化は困難を極めるはずでした。一般的に農民は自分の土地が国家に取り上げられる際に抵抗するからです。しかし、中国農民はすんなり土地接収を受け入れました。土地改革で自分の農地を手に入れていた中国農民でしたが、食糧事情は改善せず、貧しい生活を強いられていたからです。

農業集団化の初期段階では生活互助組が形成され、次の段階では土地や道具を出し合って、共同で生産を行う初級合作社、次の段階では生産手段はすべて農民を離れて、生産を行う高級合作社が形成されました。

農業集団化は数年以内に高級合作社の割合が90%を超えることによって急速に進んでいきました。

早すぎた社会主義改造の代償 

新民主主義路線を捨て、社会主義路線への転換を果たした中国共産党でしたが、社会主義に踏み切った代償は少なくないものでした。指導部内の亀裂とテロルへの依存化がその代償として考えられています。

指導部内の亀裂 高崗事件

共産党指導部は急速な社会主義化か新民主主義路線の堅持かで揉めます。社会主義路線の幹部は新民主主義路線の劉少奇を弾圧しようしました。その中心にいたのが、高崗でした。

しかし、社会主義グループの中でも高崗は危険な存在と見られるようになり、毛沢東は逆に劉少奇を自分側に取り込もうと劉少奇に高崗を殺害させ、劉少奇を自分側につけさせたのです。

テロルへの依存 1955年夏の反革命粛清運動の開始

1955年夏に反革命分子粛清運動の開始が開始されました。共産党による計画的な逮捕と計画的な殺人が始まったのです。

1955年には2.1万人、翌年には2.8万人の殺害計画が作成されました。政治的に定められた数字を満たすために犯罪者を祭り上げ、粛清していった。この粛清運動は国家による民衆へのテロだと考えられている。

こうして政治空間におけるテロル=暴力が蔓延し、民衆は国家権力に戦々恐々とすることになります。このテロルは毛沢東による農業集団化への抵抗勢力の勢いを削いでおくための策略でした。

いかなる社会主義であったか?

1956年8月、毛沢東は中国全土の社会主義化を宣言します。そこで毛沢東は

我々のこの国家が建設しようとしているのは、ひとつの偉大な社会主義国家である。過去100年の立ち遅れた状況、人様にバカにされた状況、恥ずかしい状況を完全に改め、…アメリカに追いつこうとしているのである。

と大見得を切りました。しかし、現実の中国社会主義はあまりに貧しい社会主義でした。

しかも、その社会主義はナショナリズムと強烈に結びついた社会主義でした。これは本来、ありえないことです。社会主義の目標は国家の死滅と国境の溶解だったはずです。

中国式の社会主義は本来の社会主義とはかけ離れた形で漂流を続けていくことになるのです。

【補足】マルクス主義の考え方

マルクス主義の考え方からすれば、社会主義は資本主義が最も発展した形です。その資本主義が発展すればするほど独占的な資本家に集中していくと考えられ、その少数の資本家の生産手段を全体の所有に移行することは簡単だと考えられました。

マルクス自身は社会主義という言葉を使ってはいませんでした。レーニンによって共産主義の低次の段階が社会主義と呼ばれることになったのです。社会主義は共産主義に向かう途中段階ということです。

社会主義が発展することで、社会は豊かになっているはずだから、社会主義から共産主義社会への転換はスムーズに起こるだろうと想定されていました。

マルクスが想定したのは社会的財産の社会的所有であり、国家的な所有として社会主義と資本主義社会の移行過程を考えたのはスターリンでした。

そのためマルクスがそもそもイメージしていた社会主義と現在の社会主義にある国家所有の考え方とは相容れない思想です。

社会主義の中でマルクスもレーニンも社会主義国家が、国家として肥大化することは全く考えていませんでした。