金日成は金正日に殺された説を検証①〜親子の路線対立はあったのか?

金日成は金正日に殺された説を検証①〜親子の路線対立はあったのか?

朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)は王朝国家である。専制君主国家と言ってもよい。金日成ー金正日ー金正恩と親子三代に渡る世襲制は社会主義国では前例がない。建国した1948年から金一族による事実上の独裁体制が敷かれている。北朝鮮における権力の源泉は金日成による抗日パルチザン運動から始まる「白頭山の血統」であり、その血統を受け継ぐ金一族がこそが北朝鮮の政治権力を保持するに正統性を持つ。

親子であるからというよりもこの白頭山の血統を持っているからこそ、北朝鮮の政治体制には連続性が認められるとされてきた。ここでの連続性とは政策の一貫性のことである。すなわち、建国以来、北朝鮮は国家戦略として情報の秘匿性にこだわり、徹底的な閉鎖国家として北東アジアの地に存在し続けてきた。

しかし、細かく見ると、その時々における北朝鮮の国家戦略は異なっている。これは対外・対内環境に合わせて政策を決定する方針が曲がりなりにも北朝鮮の中で取られていることの証左であろう。

込み入った北朝鮮の政策について論じることはしないが、ここで重要なのが北朝鮮がどのような政策決定プロセスをとってきたかである。

先述のように北朝鮮は金一族による独裁体制だ。簡単に言えば、金日成、金正日、金正恩による意思決定がそのまま政策になってきた。彼らが右といえば政策は右になる。北朝鮮ではこの独裁システムを「唯一指導体系」と呼ぶことがある。唯一指導体系が存在することとはそのまま独裁者が意思決定のプロセスを牛耳ることであり、その独裁者の意向がその時々の政策の性格を決定すると言って過言でない。

つまり、金日成なら金日成、金正日なら金正日、金正恩なら金正日の個人的選好が政策決定に結びつくことになる。

しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がる。金日成と金正日は両者が並立していた時期がある。この時の北朝鮮の政策はどのような性格を帯びるのかということである。

1980年の第6回党大会で金正日が後継者指名をされて以来、金正日は「党中央」として軍・党・国家の要職に就任し、政治的権力を保持し始める。

しかし、依然として北朝鮮のトップは金日成であったし、これまで論じたことを踏まえれば、金正日が後継者指名されたとしても金日成の意向が政策に決定的な要因を及ぼすはずである。

しかし、1980年以降の金正日は実際には金日成の下で実際に政策を運用するナンバーツーの立場にいたことがわかっている。組織指導部、宣伝扇動部という党の核心権力を中心に党権力を保持し、金正日書記室を組織。

側近政治と呼ばれる金正日独特の政治指導体制を作り出していた。つまり、金日成と金正日との間には統治スタイルでかなりの相違が認められる。その相違を大雑把にまとめるならば、金日成がプロセス重視の方針を取る一方で金正日がプロセスや権力順位に拘らない比較的大統領的な統治手法をとっていたということである。

これは両者の個人的な政治スタイルの違いだけに止まらず、両者の「対立」まで発展していたとする見方が存在する。

ここでは萩原遼の『北朝鮮 金王朝の真実』を参考に両者の路線対立が如何なるものであったのかについて考察する。

萩原遼は1937年高知県生まれ。大阪外大朝鮮語学科を卒業後、しんぶん赤旗記者として活動し、72年からは平壌に特派員として派遣。現地で取材活動をした。2017年に死去。

この『北朝鮮 金王朝の真実』にて萩原は「金日成は金正日によって殺された」との説を提唱している。この説を以下で詳しく見ていこうと思ったら、もうすでに1500文字に迫っているので、次の記事に譲ることにする。