金日成は金正日に殺された説を検証②〜『北朝鮮 金王朝の真実』を参考に

金日成は金正日に殺された説を検証②〜『北朝鮮 金王朝の真実』を参考に

前回記事⬇︎の続きになる。

萩原遼作『北朝鮮 金王朝の真実』第三章「父・金日成を謀殺する ー1990年秋から父子の路線対立が」を検討する。

1980年ごろから北朝鮮は実質の政治主体が金正日になっていた。1990年ごろになると北朝鮮の経済状態は厳しい状況にあった。この背景には社会主義国の国々が次々と倒れ、北朝鮮を取り巻く国際環境が厳しくなった。

それに加えて、国内における洪水の発生もあり、北朝鮮の国内における食糧事情は非常に劣悪なものになっていた。1990年ごろの北朝鮮の食糧事情の悪さは飢餓による死者となって現れた。幅はあるものの30万人から100万人程度がなくなったというのが定説のようである。

しかし、この食糧事情の悪さは最高指導部である金日成には伝わっていなかった。なぜかといえば実際に執務を行っていたのが金正日であり、その金正日が金日成に対して実態を報告することがなかったからである。

実態を報告されなかった金日成は本気で農業がうまくいっていたと信じていたようだと本書では述べられている。

金日成は1990年の新年の辞において以下のように述べている。

社会主義農村問題に関するテーゼの発表25周年にあたる昨年には、我が農民たちは農業戦線をになった社会主義勤労者としての高い責任感をもって、農村テーゼが示した課題を貫徹する闘争を力強く繰り広げ、我が国社会主義農村経理制度を一層固め、農業生活において新たな高揚を起こしました

本文63ページ

金日成はここでは当時の農業状況には疑いを持っていないようだ。しかし、彼に近い部下からの直訴を受け、農業の実態、餓死者の実態を悟るようになる。こうして彼は79歳の老齢を押して、実際の執務に戻ろうとした。

実際に彼が執務に戻ったのかどうかはここではわからない。執務に戻ったかどうかを検討するには労働新聞などでの現地指導回数を検討する必要があろう。

それはともあれ、実際に金日成が執務に戻るとしてここでは検討していこう。荻原は金日成と金正日の間での路線対立が民政 VS 軍事の対立であったとしている。

民生を重視する金日成と軍事優先の金正日がその方針を巡って対立したというのである。予算制約がある北朝鮮の中で民生と軍事を両立させることは困難である。どちらにリソースをより多く配分するのかを巡って対立することになる。

金日成が打ち出した戦略は「農業第一主義 軽工業第一主義 貿易第一主義」だった。民生重視の方針が明確に出るようになった。

その時の北朝鮮はアメリカと核疑惑をめぐるジュネーブ交渉に臨んでいた。金正日による方針は黒煙炉から軽水炉への転換をすることであり、アメリカからの重油獲得であった。

これに対して、金日成は内政重視の観点から、その傾斜を南北首脳会談に寄せて行った。なぜなら当時の韓国大統領・金泳三は南北首脳会談の手土産に多くの資金援助を持ってくると考えられていたからである。

この資金援助を外でもない民生向上に使おうとするのが金日成の方針であった。これに対して金正日は愕然とする。南マネーが流入し、民生が回復すれば、威信は完全に金日成のもの。金正日としては面白くない。

萩原の論ではこれらの路線対立を受けて、金正日が金日成を殺したとのやや飛躍的な結論に落ち着くことになった。

実際にどうだったのか。もちろん真実はわからない。しかし、連続性の高いと言われる北朝鮮政治において路線対立が存在し、その中で政策決定が行われていたという指摘は重く受け止めなくてはならない。

実際に南との交渉とアメリカとの交渉が同時並行的に行われていた外交状況の中で北朝鮮の内部での路線対立があった。ここからわかることとは第1次核危機の中でのアメリカとの交渉と幻の南北首脳会談は金日成と金正日の間では受け止め方が異なっていたのではないかということである。

金日成は初めての南北首脳会談を前に「はしゃいでいた」との言及もあるくらいに嬉しい出来事であったに違いない。しかし、金正日にとってはそれは自らの威信をかけた戦いだった。

一方のジュネーブでは北朝鮮とアメリカによる激しい交渉が行われていた。金日成にとってそれは軍事偏重の息子金正日に対する大きな懸念であったし、金正日としては自らの先軍政治の構築のファーストステップとして是が非でも成功させたい交渉だった。

この二人の世界認識の決定的な差が路線対立となって表象し、萩原のような論説をもたらすことになったと考えられる。