北朝鮮の核問題の起源はどこだ?

北朝鮮の核問題の起源はどこだ?

この記事では北朝鮮の核問題をその始まりから丁寧に解説しています。北朝鮮の核問題は1990年代から始まります。北朝鮮がなぜ核開発をするのか?本当に核を放棄する意思はあるのか?北朝鮮をめぐる核問題を正確に理解するにはその起源に遡ることが必要です。時計の針を30年ほど前に戻してみましょう。

北朝鮮核問題の始まり

北朝鮮が核兵器を開発しているのではないかとの疑惑が浮かび上がってきたのは1990年頃です。当時の北朝鮮は冷戦終結によって厳しい国家状況にありました。

冷戦終結によって後ろ盾であるソ連が崩壊し、韓国とは埋めがたい差ができていました。その韓国は盧泰愚政権のもとで北方外交を進め、ソ連や中国と国交正常化を果たします。北朝鮮は国際的に孤立を深めていたのです。

体制間競争で優位に立った韓国は盧泰愚大統領のもとで「7.7宣言」を出して、北朝鮮との対話に乗り出します。北朝鮮はいわば「上から目線」で韓国から対話にのり出されたのです。

韓国とは1992年に発行する南北基本合意書で朝鮮半島の非核化を合意し、対日関係の改善にも乗り出します。1990年9月からは金丸・田辺訪朝団が金日成主席と会談し、国交平和正常化交渉が行われました。

北朝鮮が「体制維持」への危機意識があり、国家存亡の危機にありました。北朝鮮が核開発に進むのもこのような厳しい国内外の環境がありました。

北朝鮮の核開発疑惑と核危機

北朝鮮の核開発疑惑が決定的になったのは1993年でした。かねてから原子力発電所の建設目的で核の平和利用を謳っていた北朝鮮ですが、核兵器を開発しているのではないかとの疑惑が持ち上がり、IAEAからの査察を拒否します。

これによって北朝鮮は1993年3月に「NPT脱退宣言」を行います。これが第1次核危機です。

米朝交渉が不調に終わると、93年から94年にかけてアメリカは軍事オプションの行使を検討します。これに危機感を持ったカーター元大統領が1994年6月に訪朝し、米朝交渉が再び活発に行われることになります。

この結果、ジュネーブで「合意枠組み」が結ばれました。この枠組みでは米朝がやるべきことを包括的に定めました。

まず北朝鮮が核開発疑惑を解消できるようにするための措置が取られることを定めました。兵器使用できるプルトニウムが作成可能な黒煙原子炉から軽水炉への転換が定められました。その転換にあたり、北朝鮮は国際社会が必要な経費を払うことを求めました。

軽水炉への転換をする代わりにアメリカは北朝鮮に対して重油を供与することが決められました。しかし、合意枠組みは履行されず失敗に終わります。

これに加え、朝鮮半島エネルギー機構(KEDO)が発足して、朝鮮半島における核資源を平和利用するための枠組みが作られました。

この交渉の最中、金日成が1994年7月8日に死去します。最高権力者の死に伴い、北朝鮮国内政治の不安定化が懸念されます。この北朝鮮政治体制への評価が各国で異なり、その評価の違いは国際社会の足並みが乱れることになります。

アメリカは北朝鮮を国際社会の中にソフトランディングさせることを狙いますが、韓国は北朝鮮が崩壊することを前提に強硬姿勢をとり、ハードランディングによる問題解決を狙っていました。

北朝鮮は足並みが乱れる国際社会を尻目に核開発とミサイル開発を並行的に進めていったのでした。

テポドン発射とペリープロセス

北朝鮮は核開発と並行的に進めていたミサイル開発の「成果」を98年8月に発表します。「光明星1号」と名付けられた中距離ミサイルの発射は北東アジアの安全保障環境の転換を印象付けました。

アメリカは1996年4月から米朝ミサイル協議を行なっていましたが、98年の発射で協議の失敗が明らかになります。アメリカの中で対北朝鮮戦略の見直しが迫られました。

当時のアメリカの北朝鮮担当者としてペリー調整官が任命されました。ペリーによって対北戦略の見直しとこれからの方針が出されました。これを「ペリープロセス」と言います。

「ペリープロセス」ではアメリカ・韓国・日本が協調して、北朝鮮問題を解決しようとすることを狙っていました。北朝鮮に対してしっかりとした抑止力を確保しつつ、対話することで北朝鮮の姿勢を変化させようとしたのです。

日本の安全保障環境も1998年10月の北朝鮮によるテポドン発射によって潮目が変わります。日本の安全保障への危機感が強く意識されました。戦略の見直しと防衛力の強化が目指されました。