太平天国の乱について死ぬほど本気で解説するので聞いてくれ

太平天国の乱について死ぬほど本気で解説するので聞いてくれ

この記事では太平天国の乱について詳しく解説しています。1848年はヨーロッパでは革命の年となりました。1848年の革命がナショナリズムとデモクラシーへの道を切り開く大きな出来事になったからです。革命の嵐がヨーロッパで吹く中、中国でも大事件が発生しました。それが今回紹介する太平天国の乱です。世界史の授業の中でもスーッと通り過ぎてしまう太平天国の乱ですが、実際にはヨーロッパでの革命に引けをとらないほどのインパクトを持っていました。今回はこの太平天国の乱を深く掘り下げていきます。

反乱の主体ー拝上帝会の成立

指導者ー洪秀全

太平天国は最盛期にはフランスほどの領土を獲得し、2000万人規模の死者を出したと言われています。これは19世紀で最大規模の民衆反乱とされています。

太平天国の乱の主体となったのは拝上帝会でした。反乱発生当時は広西省で約23万人の信者を有していました。指導者は当時37歳の洪秀全。客家の農民出身です。

客家とは漢民族の方言グループに属する人々のこと。黄河中流域から南部に移住し、独自の文化や言語を持っています。。それゆえに周囲からの差別にあいました。しかし非常に優秀なことで有名で東洋のユダヤ人とも呼ばれています。

洪秀全も頭脳明晰だったものの、科挙試験には尽く失敗しました。その結果、神経衰弱に陥り、病床へ。この病床で彼は幻を見ます。

神経衰弱から回復し、街をぶらついていたところ、洪秀全はキリスト教のパンフレットを偶然に受け取りました。

そのパンフレットの内容と夢での幻とが結びつき、洪秀全は自分がイエスキリストの弟であることを悟りました。彼は友人である馮雲山(ふう うんざん)とともに広東省と広西省の二地域で「天父を信じなさい」との布教活動を開始しました。

拝上帝会成立の社会的背景

当時の中国には宗教団体が成長しやすい状況が整っていました。特に広西省はアヘン戦争の敗北、イギリスへの抵抗のために混乱状態にありました。実質的な増税にあたる銀価格の高騰も重なり、社会不安が蔓延していました。

社会が混乱している時、宗教は比較的容易に人々の心をとらえます。貧しい農民や炭焼き妊婦、鉱山労働者が拝上帝会の信徒となりました。彼らは社会の最底辺層。彼らを取り込むことで拝上帝会はプロレタリア的な性格を持つことになります。

あまりに容易に信徒が集まったために洪秀全と馮雲山は驚きつつも、より勢力を拡大させようと活動を本格化させます。

そこで拝上帝会は政府軍との戦いに巻き込まれていきます。拝上帝会は武装を始めていきました。

清朝政府軍との戦闘

当時、中国各地には盗賊集団が蔓延していました。そのため拝上帝会は盗賊集団から自らを守るために武装せざるをえません。しかし、この拝上帝会の動きは清朝政府にとって反乱軍の成立を意味しました。清朝政府は反射的に拝上帝会を叩くために戦争を開始します。

しかし、拝上帝会が望んで清朝に戦いを開始させたとの研究もあります。それほど拝上帝会のイデオロギーは清朝と相容れないものでした。

洪秀全は

天父こそが一家の父であり、天父の元で男女はすべて兄弟である。天下は一つの家族であり、私的な利害は主張してはならない

として、国家権力や地主は邪悪な勢力だと考えていました。どうも彼は地主や国家権力のことを「閻魔大統領」や「悪魔」と呼んでいたようです。

望むと望まざるとにかかわらず、拝上帝会はいずれかのタイミングで清朝に反旗を翻したでしょう。両者の主張はあまりに異なっていたからです。

太平天国の清朝への最初の蜂起を金田蜂起と言います。このタイミングで彼らは「太平天国」を名乗り始めます。太平天国軍は一旦4,000人にまで減少するものののちに勢力を拡大。快進撃を続けます。各地で政府軍を破りながら北上していきました。

この過程でただの武装蜂起から大規模な反乱へと運動の性質が変わっていきます。1853年には20万人規模で南京を制圧。天京と改称して政治の中心とします。

余談になりますが、太平天国から抜け出した多くの人々は上海に避難しました。上海が現在のような中国有数の都市に発展するのも太平天国が大きく作用しています。

太平天国軍はさらなる北上を狙い、遠征軍を派遣しますが天津に迫ったところで全滅させられます。その後、政府軍と外国干渉軍によって追い詰められ、崩壊していきました。

組織とイデオロギー

組織

天王と五人の王

太平天国は組織作りに古書『周礼』を参考にしていました。『周礼』には周代に完成した理想の統治制度が記されています。

太平天国において洪秀全は霊の世界と地上の世界において最高の存在と規定されました。しかし、どんな独裁者でも組織を一人で組織することは不可能です。

そのため彼には側近として五人の王がいました。五人の王はいずれも自分が管轄する領域の人事と軍事を掌握しており、五人の王の元に階層的秩序が整備されていました。五人の王は軍事指導者と宗教指導者、行政官の役割を果たしていました。

「全体主義的システム」(F.マイケル)

太平天国の統治システムは全体主義的でした。国家が人々の生活を全面的に監視するシステムを備えていたからです。

全体主義的なシステムに必ずついて回るのが禁欲主義です。太平天国も例に漏れません。軍団は男性のテント、女性用のテントに分かれ、戦利品の所有も固く禁じられていました。略奪や暴行、アヘン、博打、飲酒も厳しく禁止されました。

イデオロギー

進歩的諸側面と古色蒼然

太平天国のイデオロギーはごった煮のようでした。キリスト教と原始共産主義、シャーマニズム、儒教(太平天国後期に限る)が混じり合っていたからです。

当時の中国としては進歩的な側面が多くありました。例を挙げると

  • 老人や身体障害者、寡、孤児は保護対象
  • 女性は男性と完全な対等な存在
  • 纏足の禁止
  • 女性軍人や女性官職の登用

これらは完全に反儒教的な考え方です。しかも、1853年ごろ成立の「天朝田畝制度」では女性にも土地が分け与えられました。あらゆる財産の私有を禁止しようとしていたとの研究もありよくわからない部分も残っています。

進歩的な太平天国の姿勢を見てとることもできます。洪秀全の弟・洪仁玕による『姿政新編』では銀行の創設や新聞の発行、鉄道の敷設、汽船の製造、西洋諸国との通商活性化などの政策が検討されていたと言います。

以上のような組織的・イデオロギー的特徴などから見るに、太平天国の乱を伝統中国で繰り返されてきた農民反乱だとみなすには不適切なように思われます。

だからと言って、太平天国の中に近代革命を見ることができるとするには早計でしょう。

これまで紹介した太平天国の近代的な側面は単なるアイデアにしか過ぎない上に、最終的には伝統の持つ力の前に屈服したからです。

孔子と孟子による儒教の古典が禁止され、新約聖書や旧約聖書が翻訳され流布していたのは太平天国の初期だけ。東王は三位一体説をはじめとする旧約聖書や新約聖書には誤りが多いとして出版停止にしました。と同時に彼は儒教の書物を有益な部分が多いとして解禁します。

五人の王はそれぞれが宮殿に住み、多くの妾を抱えていました。しかも、子どもと女性用の太平天国の乱の教科書には、「三従の道(幼いに時には 嫁いでは夫に従え。老いては男に従え)」と書かれていました。これは極めて儒教的です。古色蒼然とした要素が混じり合っていたのが太平天国だったのです。

太平天国は外国人を清朝と同じように朝貢形式で扱いました。中国にキリスト教の国家ができたと喜んだイギリスも天京で絶望します。朝貢を要求されたからです。

キリスト教を標榜しているのにもかかわらず伝統と妥協しているからこそ太平天国の力をそいでしまったのかもしれません。自らが掲げた理念に誠実でない姿勢が協力者を遠ざけてしまったからです。

しかし、伝統は長い時間をかけて人々の意識に刷り込まれた行動様式です。なかなか簡単に変えることはできません。

トクヴィルはこう言います。

前の世代と戦うことはできる。しかし、前の世代と似ないようにするのは非常に難しい

太平天国もまた中国4000年の歴史の大波に飲まれてしまったのです。

崩壊過程

内部分裂

先ほど述べたように、太平天国には洪秀全に加え、五人の王がいました。南王は洪秀全と同じく科挙の落第生、東王と西王が文盲、北王と翼王が地主という多様なメンバー構成。

洪秀全と南王が政策。東王、西王が軍事担当でした。太平天国が拡大すると東王が次第に実権を握るようになりました。これを見かねた北王が洪秀全の指示で東王を暗殺し、クーデター(天京事件)を起こします。

ところが今度は北王が洪秀全を脅かすようになったので、洪秀全は北王を処刑、翼王も迫害します。翼王は兵士10万人と共に太平天国を離脱してしまいました。

太平天国内の典型的な派閥対立が農民たちの信仰心が薄らいでいく原因となり、太平天国の弱体化は一層進みました。当時の清朝正規軍は腐敗しきっており、太平天国軍を討伐できるほどの力はありませんでした。それでも太平天国は清朝に勝てなかった。太平天国がオウンゴールを繰り返したからです。

政府軍+外国人が組織した部隊の攻撃

郷勇ー曾国藩の湘軍、李鴻章の淮軍

腐敗しきった清朝正規軍に代わって太平天国軍と戦ったのが義勇軍である郷勇でした。中でも李鴻章の淮軍と曾国藩の湘軍が特に有名です。これに加えて帝国主義列強も太平天国討伐に力を貸します。

常勝軍ーCharles.G.Gordonの部隊

イギリスの軍人・F. Ward が常勝軍を整備しました。将校に外国人を置き、兵士は中国人でした。いわゆる常勝軍です。常勝軍は中国初の近代部隊。常勝軍と湘軍・淮軍が協力することで少しづつ太平天国軍を追い詰めていきました。

洪秀全が1864年に死去すると、14年に渡って、16の省を支配した太平天国は幕を閉じることになりました。

歴史的意義および考察

社会・権力構造の流動化

太平天国は中国社会に大きな変化をもたらしました。それまで中国を支えていた権力機構が流動化したからです。

まず地主たちは農民反乱が持つ影響力の大きさに恐れおののき、農民たちに妥協せざるをえなくなくなりました。その結果、全国的に小作料が引き下げられ、農村の中での地主の支配力は弱体化せざるを得ませんでした。

また郷勇を組織した地方有力者の政治力が高まります。中央が地方を支配する力が相対的に低下したからです。

太平天国の影響は中国各地に飛び火しました。太平天国の乱は非常に強力な社会的感染力を持ち、太平天国と同じ時期、少数民族によって太平天国に呼応した多くの反乱が発生していました。もし太平天国が少数民族の反乱と緊密な連携をとっていたら太平天国の寿命は伸びていたかもしれません。

各地で発生した反乱の中でも特に捻軍の反乱が代表的です。捻軍は中国北部を中心に活動していた農民の反乱軍です。捻軍は秘密結社や匪賊のルーズな連合軍。

ちなみに捻軍の「捻」とは反乱軍の口癖で「人々の集まり」を意味します。捻軍は太平天国崩壊後、太平天国からの流れ者を受容しました。最終的には失敗したものの清朝を最後まで追い詰めました。捻軍のような各地で頻発する農民反乱が清朝の体力を確実に奪っていくことになりました。

反乱と革命の間

政治学的に見て、太平天国の乱には面白い点があります。近代革命と前時代的反乱の要素を持っているからです。

革命とは

ある青写真に基づいて過去から全く断裂した世界を作ろうとすること

です。つまり、革命は将来を見るものです。ハンナアーレントは

暴力がある統治形態を作り出す場合のみ革命について語ることができる

とも述べています。

逆に反乱は過去を見ています。過去を復元しようとする願望こそが反乱の本質。反乱に立ち上がる人々はこれまでと異なる社会を作ろうとは考えていません。

例えば、反乱では増税前の状態に戻そうとしたり、役人の腐敗を浄化したりすることを狙います。「反乱」と聞くとおどろおどろしいですが、過去を復元する役割を持つと考えると、反乱はシステムを安定させるための構造的安全弁であるとも考えられます。いわば新陳代謝の役割です。

このように革命と反乱の間には非常に深い溝があります。近代以前には革命は存在しません。なぜなら近代以前の人々には社会を自らの手で作ろうとする精神性がなかったからです。

革命には人間による社会を作るとする信念こそが必要です。前近代にはこの信念が存在する土壌がありませんでした。社会のすべてが神によって決定されると考えられていたからです。革命は一つの普遍的な概念ではなく、19世紀以降と時代的に限定されているのは以上のような理由からです。

まとめ

太平天国は大事件です。この大事件を振り返った時、その指導者が打ち出した政策や理念は伝統中国の特徴を完全に逸脱していました。太平天国の乱から100年後、共産党は革命によって中華人民共和国を建国します。その共産党による革命を太平天国は先取りしていたとも考えられています。

今日の歴史家たちは太平天国の乱とは言わずに太平天国革命と呼ぶことがあります。しかし、太平天国には伝統を振り払うだけの十分な力がありませんでした。

太平天国もまた伝統が持つ巨大な力を前に屈服していきました。近代革命に向かう扉に手をかけたけれども挫折した太平天国は歴史の中に埋もれる事件となっていきました。