台湾の歴史を詳細解説!【1945年〜2000年】

台湾の歴史を詳細解説!【1945年〜2000年】

この記事では戦後台湾の歴史について解説しています。戦後の台湾は日本統治から回復したかと思えば、大陸中国から国民党がやってきて、中華民国が建国されました。大陸中国との関係に翻弄された台湾の歴史について学んでいきましょう。

大日本帝国から中華民国へ

1945年8月に大日本帝国が第二次世界大戦に敗北するとポツダム宣言に基づき、日本の台湾領有が放棄されました。

これを受けて1945年10月には連合国側を代表して中華民国軍が台湾に上陸しました。台湾に駐留していた日本軍は武装解除され、統治権は日本から中華民国へと接収されました。これにより台湾は中華民国の支配下に入りました。

しかし、中華民国による台湾接収は国際法的には曖昧な部分があります。ポツダム宣言などの国際的な合意で中華民国に台湾接収が認められたわけではないからです。

いずれにせよ台湾は中国に復帰しました。異民族であった日本から同じ「民族」ある中華民国の支配へと「光復」(祖国復帰)を果たしました。

裏切られた光復

しかし、中華民国政府による統治は台湾人にとって日本時代もしくはそれ以上に酷いものとなりました。中華民国政府は法による支配ではなく人治による支配を行ったからです。

人治による支配の下では社会の中に腐敗と汚職が蔓延。本国の煽りも受けて台湾はハイパーインフレが襲いました。

台湾を統治された日本は近代化を果たした先進国。近代国家・日本の統治を受けた台湾も近代化を果たしていました。しかし、日本に代わり台湾に侵入してきた中華民国は前近代国家。近代社会・台湾を支配し始めたのが前近代社会・中華民国との悲劇が起きました。

日本時代のシステマティックで法の支配に基づいた支配からの変貌ぶりに台湾人は「犬(日本)が去って豚(国民党)が来た」との意識が共有されたとされます。

50年代〜:国民党権威主義体制の確立

台湾人エリートの排除

新たなに台湾を支配することになった国民党政権も台湾人の扱いに非常に手間取りました。台湾人は長い日本支配によって標準中国ができず、思考様式も日本人のようになっていたからです。

結果的に国民党としても台湾人に対して仕事を任せることができず、国政や省政からも排除されました。結果的に台湾人には行政官や司法官での登用制限が行われました。

台湾人はようやく祖国に復帰したにもかかわらず、受けた仕打ちはあまりに酷く、祖国に裏切られ、不満が強く残りました。

二二八事件

台湾人が不満を溜める中で二二八事件が発生しました。発端は1947年2月27日の台北でヤミタバコ取締りをめぐる対立です。

この対立の中で市民に犠牲者が生まれたため、2月28日に大規模な市民反政府デモが行われました。国民党は機銃掃射によるデモの鎮圧を試みたため、台湾住民からの抗議は大規模化・全島化しました。

国民党政府は長引くデモの鎮圧のために時間を稼ぎつつ大陸中国に援軍を要求します。大陸中国からも部隊が投入され、二二八事件は徹底的に弾圧されました。デモは2ヶ月を超えて続き、死者は2万人以上を出す惨劇に。二二八事件を通じて、台湾人(本省人)の外省人に対する不信感は決定的なものになりました。

国民党権威主義体制の実情

二二八事件が鎮圧されると国民党は権威主義体制を確立していきます。1948年5月10日には動員戡乱時期臨時条款を発動します。

動員戡乱時期臨時条款では以下のことが決められました。

総統は動員戡乱時期において、国家や人民に緊急の危機を避けるため、また、政治・財政・経済上の大変動に対応するため、行政院会議の決議を経て、緊急処分令や戒厳令を実施できるものとする。なお、緊急処分令や戒厳令は憲法39条および43条の制限を受けない。

前記の緊急処分令について、立法院は憲法57条第2項に基づき、変更や廃止を求めることができる。
動員戡乱期の終了は総統が宣言する。もしくは、立法院が総統に宣言を要請することができる。
第1期国民大会は、総統が民国39年(1950年)12月25日以前に臨時開会し、憲法修正に関する事項を議論する。臨時条款の終了が前項の規定によって宣言されていなければ、国民大会臨時会議が、その延長もしくは廃止を決定しなければならない。

動員戡乱時期臨時条款が発動されると総統の権限が拡大し、国民党の一党独裁体制を確立するのを容易にしました。

動員戡乱時期臨時条款に続いて1949年5月20日には戒厳令が出されました。戒厳令下の台湾では軍事裁判や検閲を行うことが認められ、国民党権威主義体制に反対する者への取り締まりが強化されました。

特に二二八事件から50年代にかけては恐怖による支配が続きます。1950年代は白色テロと呼ばれる国民党側が反体制的な人物を次々と弾圧する事件が頻発しました。

これらの政策により台湾土着エリートは弱体化します。国民党政府は弱体化したエリートに対して土地改革と地方選挙・利益誘導政治などを通じて体制への取り込みを始めました。

国民党は地方との関係を強化し、全国支配を確立していきます。国民党と地方の関係はパトロン=クライアントの関係と呼ばれます。中央政府に対して忠誠を誓う地方政府により多くの恩恵を与え、地方自治体を競争させつつ、忠誠心を育む関係を構築しました。

この関係を支えたのが双派系主義と呼ばれる政治手法です。地方派系(地縁や後援会などの地方のネットワーク)を1つの地域に意図的に2つ以上育成することで中央への競争心を煽り、忠誠心を育成しました。特定の派系が強力となり中央に対して逆らうことを回避するためでもありました。

60年代〜:経済成長と国際的孤立

1960年代以降の台湾は高度成長を果たします。これにより国民党独裁体制は緩んでいきました。経済成長は教育水準アップをもたらし、台湾国民の中に独裁体制への不満が高まりました。

そこで国民党は不満分子の取り込みを始めます。やみくもに弾圧するのではなく、融和を図るのが国民党の賢いところです。

立法院における改選枠の拡大、立法院増補選挙(1969年)、公務員試験の地域枠割り当ての廃止などが行われました。結果的に多くの本省人が国民党体制の中に取り込まれるようになりました。

順調に経済成長を果たし、国際政治の中でもプレゼンスを向上させていた台湾・国民党体制も70年代には苦境を迎えます。世界各国が中華人民共和国を正式な国家として認め始めたからです。台湾は外部正統性を失い、国家としての存立基盤を失う危機に面しました。

外部正統性を失った以上、台湾は内部正統性を確保する路線を取るようになりました。その結果、国民党体制に反対する本省人の要求が受け入れられるようになり、60年代でも見られた民主化要求を小出しに認めていきます。

立法院では改選枠が拡大され、選挙が定期的に開催されるようになりました。国民党の中でも党官僚や政治任用職に若年層を積極的に登用するようになりました。

台湾では70年代からゆっくり民主化が進んでいきました。

民主化へ

80年代:党外勢力の拡大と戒厳令の解除

1980年代になると国内で民主派が成長してきます。民主化の要求に対して国民党体制は中華民国の前提である自由民主主義の原則へ回帰を果たすとの建前からも民主化要求を認めざるを得ません。

80年代にはかねがね公正な選挙が行われ、民主化勢力が立法院で議席を確保するようになり、党外勢力が拡大します。国民党一党独裁体制が保存されたまま、民主化が進んで行きました。

最終的には台湾独立を綱領に掲げる民主進歩党(民進党)が結成されました。1987年に戒厳令が解除される前に民進党が作られているのは面白い点です。戒厳令下では党禁(新党を作ることが原則禁止)だったからです。しかし、国民党はこれを認めざるを得ませんでした。この頃には民主化を認めなくてはならない雰囲気が出来上がっていました。

1987年には戒厳令が解除され、民主化への大きな一歩を踏み出します。この裏にはアメリカによる圧力がありました。台湾の最大のスポンサーである台湾は独裁体制を否定していたからです。アメリカによる一押しもあり、台湾は民主化に向けて加速していきます。

台湾は民主化するにあたり、他国のような大規模な虐殺が行われることはありませんでした。そのため国民党独裁体制は「成功した」独裁体制とも考えられています。

1989年には蒋経国が死去し、李登輝が総統に承認しました。蒋経国は独裁者でありながら70年代〜80年代の民主化要求を認めた政治家でした。そのため彼の評価は分かれています。

独裁者・蒋経国の死によって総統に就任したのが李登輝でした。副総統時代は評価が低かったものの総統になると政権の中で実権を掌握し始めます。国民党内部でも主流派を取り込み、完全に権力を掌握します。

権力掌握を果たした李登輝は1991年には動員戡乱時期臨時条款を廃止し、国民代表大会を全面改選します。1992年には立法院を全面的に改選し、刑法の中の思想犯条項を廃止しました。

この全面的な自由民主主義への移行の背景には李登輝情結と呼ばれる李登輝の熱狂的なファンの存在がいました。無条件で李登輝に対して支援を与える人々の存在もあり、台湾の民主化は1996年に行われた直接民主制による総統選挙にて完了しました。

まとめ

戦後の台湾の歴史を振り返ってみました。国民党権威主義体制の中で国際的な地位が下がっていくと国民党は徐々に民主化要求を呑み、1990年代には民主化を達成しました。結果的に平和的な民主化移行を果たしました。この背景には中華民国憲法の中で自由民主主義体制が想定されていたからです。