台湾の日本統治時代について詳細解説!

台湾の日本統治時代について詳細解説!

この記事では日本に統治されていた時代の台湾について解説していきます。台湾の日本統治時代は日清戦争後の下関条約から始まり、日本がアジア・大西洋戦争に敗戦する約50年間続きました。

日本の統治時代は過酷な支配の一方でインフラが整備され台湾社会が発展した側面もありました。この記事では日本による台湾統治がどのようだったのかを出来る限り正確に描いてみたいと思います。

日本の台湾統治

1894年8月1日に始まった日清戦争は1年も持たずに日本の勝利が確定します。惨敗した清は講和条約で多くの領土を日本に割譲せざるを得なくなりました。その中の一つが台湾。1895年から日本が台湾を統治することとなりました。

日本は統治開始当初は清朝勢力や地元民から激しい抵抗に遭い、鎮圧に苦労します。1895年5月〜10月は台湾民主国の名の下、清朝の残留エリート大規模な武装蜂起を行いました。

このように台湾では日本統治に対して1902年までは数千人規模の武装蜂起が頻発しました。

これに対して総督府は当初は報復的鎮圧をしていましたが、次第に鎮撫両用の対応を見せました。結果的に一連の暴動を通じて2万人ほどの死亡者を出しつつも帰順者が増え、台湾の治安面では落ち着きを見せました。

日本の台湾統治が終わる1945年までは革命思想の流行による小規模な反乱や先住民による蜂起などもありましたが、全体的には落ち着いた状況が続きました。

台湾を支配する上での日本のスタンス

大日本帝国にとって台湾は初めての植民地でした。当時の列強は植民地を持つのが当たり前。しっかりとした植民地経営ができなければ列強の一人前としてみなされませんでした。日本は列強の仲間入りをしようとする立場。頑張って台湾をしっかり経営して列強の仲間入りを決めようと気合が入っていました。

統治の中心:台湾総督府

台湾の植民地経営の中心が台湾総督府でした。台湾における軍事、行政、立法、司法について専制的な権限を持っていました。

以下、台湾総督府がどのような統治を行い、どのような成果をあげたのかについて確認していきます。

警察政治

台湾総督府は全国に派出所を配置。治安維持を担当させました。これを警察政治と言います。警察政治を前提として地域ごとに「保甲制度」が整えられ、地域のまとまりごとに治安や戸籍、衛生維持、教育が行われました。

経済発展

農業改革

まず総督府は農業改革を行います。改革の内容は

  • 土地所有の明確化
  • 水利事業
  • 新田開発
  • 農協成立
  • 品種改良

と幅広く多岐に渡りました。

この結果、米の生産量は1901年の550万石から1938年には1770万石へと増加。サトウキビも1902年の76万トンから1282万トンへと急増します。日本政府も台湾での農業振興を重要視していました。コメやサトウキビ以外も防虫剤やアヘンなども重要な産地となっていました。

インフラ整備

工業面でも発展がみられました。大きな発展はインフラが整備されたことです。まず鉄道ネットワークが整備されました。水道や電気、通信のインフラも充実していきました。この時のインフラは現在でも使われています。

中でも通信インフラが整備されることで分断されていた台湾が一つの島と領域となります。現在のような台湾としてのまとまりが意識されるようになりました。

農業や工業が発展した台湾は戦時中にも南進基地として大きな役割を果たすようになりました。

教育の普及

教育システムが整えられたのも日本統治時代でした。その中心が公学校。就学率は敗戦時に約8割、日本語普及率も約8割と高い水準を誇りました。しかし、統治初期は台湾人が気軽に高等教育を受けることはできず、中等教育の普及も1919年以降から始まりました。

台湾人には1919年以降広がりを見せた中等教育では通常の中学(旧制)に加え、職業補習校が整備されました。台湾人に人気だったのが師範学校とい学校でした。

高等教育(大学)に至ると露骨な台湾人差別があり、台北帝大では日本人:台湾人=8:2でした。内地から受験する日本人学生を優先的に合格させていたからです。しかも台湾人は農業と医学しか学ぶことができず、法律や政治は学ぶことが許されませんでした。

しかし、台湾人が内地の旧帝大のような大学に進学する場合には差別はなく、奇妙な二重基準が存在していました。この二重基準は他の分野でもみられ、台湾人は台湾では官僚や法律家になることはできませんでしたが、内地では差別なく採用されていました。

なお台湾の大学では南方にある大学らしく熱帯の疫病研究や東南アジアの民俗学などが盛んに研究されました。

社会的な変化

人口増加

人口の激増も大きな変化です。その大きな要因が死亡率(特に乳児死亡率)の低下。結果、1945年時点の台湾の人口は領有当初から2倍以上になりました。

旧習の廃絶

日本統治時代には清朝時代の風習が廃絶されました。廃止された代表的な風習がアヘンの吸引や纏足、辮髪です。特に纏足の廃止は女性の社会進出が進む契機となり、台湾の近代化を後押ししました。

ソフト面での近代化

それまでの台湾にはなかった概念が導入されたのも日本統治時代の特徴です。例えば、時間の概念や法遵守意識、衛生観念などです。これらの概念は台湾人を内面から近代化させました。

中産階級の勃興

台湾市民の中に中産階級が現れたのもこのころです。中産階級は武装抗日の失敗を目の当たりにし、武装しない形でも政治・社会運動を行いました。

代表的な政治・社会運動が台湾議会設置請願運動です。台湾独自の議会を作ろうしますが却下されました。

他には地方自治運動も行われました。地方における台湾人の自治権の拡大を要求したもので1935年から地方議会の半数を民撰とすることが決まりました。

文化的な運動も行われます。台湾文化協会が土着・民族文化を重視して地元紙である『台湾民報』を発行しました。労農運動も活発で社会主義運動がみられることもありました。

これらの運動は台湾総督府によって厳しく弾圧されませんでした。比較的穏健な支配が行われたと言えるでしょう。

まとめ:発展か搾取か

これまで日本統治時代の台湾について詳しく解説してきました。確かに台湾人に対する差別はありました。しかしそれだけではありません。日本統治時代は台湾にとって農工業の発展とともに近代化する時期でした。

この史実を現在台湾では比較的是々非々のスタンスで教育されています。日本時代に近代化をなしたよい部分と差別や搾取された悪い面の両方を教えることで台湾の中にはそこまでの反日感情は育っていません。

実際に日本統治が発展の時代だったのか搾取の時代だったのかは主観的な判断となるでしょう。しかし台湾の人々は日本統治時代を絶対悪と決め付けているわけではないのです。