同治中興についてめちゃめちゃ詳しく解説するので聞いてくれ

同治中興についてめちゃめちゃ詳しく解説するので聞いてくれ

改革はいつも難しいものです。新しいシステムを作るには長い時間がかかるからです。古いシステムに慣れきった人の惰性を消し、既得権益を打破することはどんな有能な政治家でも至難のワザです。19世紀中国もそれは全く同じでした。

この記事では同治中興について詳しく解説しています。アヘン戦争後に惨敗した清朝は改革を行い、近代化を目指しました。これを当時の皇帝の名前を取り、同治中興と言います。今回はこの同治中興について詳しく掘り下げます。

同治中興とは何か?

危機による清朝の立ち直りと相対的安定

清朝はアヘン戦争以来の英仏占領と太平天国への対処という大きな問題に直面していました。中央政府でも混乱が続きます。1861年には咸豊帝がわずか31歳で亡くなり、幼い同治帝が即位します。

しかし、同治帝が即位すると、英仏は条約を結んだことに満足し北京を去りました。と同時に太平天国も弱体化。危機的な問題がいきなり好転し、内外の諸条件が偶然にも安定化していきました。この頃に西洋をモデルにした一連の改革が行われ、社会が相対的に安定したことを同治中興と言います。

「改革」の試み

指導者の問題意識ー最優先事項としての国内反乱への対処

同治中興の時代に盛んに叫ばれたのが「自強」でした。清朝の指導者は帝国主義列強からの外圧に危機意識を高めたため、自らの手で改革を行い、強い清を作ることが目指されました。

しかし、その改革の実態は同時期の日本・明治維新とは様子が異なります。中国の中では国内反乱の鎮圧が最優先事項でした。

そのため反乱を鎮圧する目的に合致するような改革案が提起されました。中国の知識人や官僚達にとって西洋が重要な存在になるの1870年代に入ってから。それまでは国内反乱が最大の関心事であり、対外的な問題は二の次でした。

日本の明治維新が富国強兵を掲げ、西洋に追いつけ追い越せの抜本的改革だったことと比べると、同治中興は消極的な改革でした。

復古的な諸改革ー官僚機構、科挙、農業をめぐって

中国の人々はなぜ西洋からの衝撃(ウェスタンインパクト)に対して呑気だったのか。それはおそらく中国人達が認識している歴史観からして西洋を格別新しいものと考えることはできなかったからでしょう。

中国にとって歴史の中で異民族が進入してくる経験は多くあります。その時々で異民族は中華文明に取り込まれ、同化されてきました。その自信こそが西洋もまた中華文明に取り込まれていくだろうとあぐらをかかせる要因となりました。

そもそも中華という概念は中国を中心に同心円状に広がっていく文化的な概念です。はっきりとした地理的概念ではありません。そのため例え侵略を受けたとしても文化的な優位が崩れなければ、中国にとって本質的なダメージにはなりません。

中華文明の中心では最高の徳を持った皇帝が徳のビームを世界に放っており、そのビームに引っ張られて野蛮人達は引き寄せられるとするのが華夷秩序です。

この華夷秩序を前提としていた清朝の官僚達の考え方は現在の我々とは根本的に異なります。この官僚の態度こそが清朝の改革に対する態度を消極的なものにします。

官僚にふさわしい優れた人間を選抜することが必要だとされたものの、実際には専門家は問題外で、ジェネラリストこそが求められました。

しかも官僚機構の改革そのものが必要でないと考えられており、それに付随する科挙改革の必要性も真剣に検討されていませんでした。

太平天国の乱のために中止されていた科挙が再開されるときも、当時の常識を大きく超えるような改革案はまったく出てきませんでした。確かに李鴻章は西洋の学問を科挙に取り入れようと提案はしました。しかし、直ちに大きな反対に遭い、実現はできませんでした。

当時の通念として数学や化学は大きな意味を持たず、本当に大切なのは人民が大義を備え、徳のある人間になることと本気で考えられていました。

太平天国の乱が起こる以前の経済状態に戻すことが求められた経済面でも進歩的な改革は進みませんでした。

当時深刻さを増していた地主小作関係の問題、とりわけ小作料の問題は改革されずじまい。喫緊の問題であった水利施設の改修も進みません。

経済成長という概念がそもそも存在しないために、商業は奨励されず旧態依然の農業が最重要視される始末です。

商業は非生産的として保護さえされません。経済成長という考え方は官僚の頭にはなかったのです。鉄道敷設も激しい反発を受けた。鉄道なんか敷いたら風水が乱れて、墓地が台無しになってしまうではないか!!!なんて具合に…

洋務運動ー西洋技術の選択的導入、その哲学的基盤としての「中体西洋論」

西洋の技術を選択的に導入して、改革を目指す運動が洋務運動(「自強」運動)です。この運動を積極的に推進しようとした官僚たちが洋務派と呼ばれる人々でした。

代表的な洋務派官僚として有名なのが李鴻章曾国藩。どちらも太平天国の乱を迎え撃った官僚。彼ら以外に左宗棠も代表的な官僚です。

総理衙門の設置

「洋務」は元々諸外国と交渉を意味しましたが次第に外国と関係する物全般を表すようになりました。この洋務を統括する部署として総理衙門が作らます。しかし、洋務運動は西洋の技術を選択的に導入したために全面的な改革には至りません。これには中国なりの思想的な裏付けがあったからです。

その思想的な裏付けとは中体西洋論です。中国の本質を保ちながら西洋の技術を実用的に用いようとする考え方です。

この考え方を最初に唱えたのが馮桂芬(ふう けいふん)や張之洞(ちょう しどう)でした。「孔孟の道」を中心とする儒家の学説こそが「中体(中国の本質)」であり、西洋の科学技術を持って中体に奉仕させようと考えました。

西洋の最先端を持ってきても本質は変わらないため、実用主義的に西洋の技術を使えばよいとのスタンスです。

軍需産業の振興

洋務運動はとりわけ軍事面で改革を行おうとします。清朝は第二次アヘン戦争にて英仏連合軍の軍事技術が極めて優れたものであると見せつけられました。

清朝はまず西洋の軍事技術を得ながら兵器工場や造船所を整備し、軍隊のシステムを改変しようとします。しかし、清朝にとって近代的な軍隊を作る目的は各地の民衆反乱に効果的に対処するためでした。

当時の清朝の指導者たちは西洋の軍事的挑戦を深刻なものだと考えていませんでした。これには清朝の中で軍事力そのものは重視されていなかったことも作用していました。当時の中国人にとって軍事力そのものはあくまで野蛮人の技術に過ぎなかったからです。

その代わりに中国人にとって文化的水準が高いからこそ中国人としての優位性があると考えていました。

「官督商辦」による民間産業の育成

近代化を行うために、半官半民の方式で様々なところに鉱山や製鉄所、貿易所を切り開いていきます。しかし、半官半民方式では無知な官僚が経営に口出ししたために、民間人の活動を邪魔し、汚職が横行する始末でした。

民間企業が自らの手で建設した近代的な工場も現れ始めますが、これらの工場もまた中国の工業化を推進するものにはなりませんでした。

押し止められる工業化

これは当時の中国における価値と社会構造に関わっています。当時の中国では官僚の地位が最も重んじられていました。すべての有能な若者が科挙に合格し官僚となることを目指しました。

豊かになった商人は家庭教師を雇い、子息を科挙に合格させようとしました。官僚のポストを金で買うこともありました。

官僚のポストの価値が高かったのは当時の中国で賄賂が横行していたこととも関係しています。当時はなんらかの事業に成功した人は再投資するのではなく、土地や書物に金を使いました。

当時の中国では私的な財産や事業に対する投資がなんら保護されていませんでした。官僚たちによる不当な介入を阻止するには官僚に大量の賄賂を送らなければなりません。しかし、それも十分な安全保障にはなりませんでした。

法整備がままならず、未来の予測不可能な社会では、人々は商工業をしようとは思えませんでした。お金を稼いでもそのお金を守れるかはわからなかったからです。

そのため官僚による不当な搾取から身を守るためにも人々は官僚になろうとしました。官僚機構に一族の誰かを忍ばせることができれば、財産を守るための安全保障が確保されることになるからです。

改革に対する反動

「清議」派の議論

洋務運動は極端な西洋嫌いの人々から厳しい批判に晒されます。反西洋の官僚や知識人たちは清議派と呼ばれました。「清議」は言葉のもともと「邪心のない議論」を意味し、政治的には異民族に対する融和策に激しく反発する人々のことを指します。国内の純潔性を守ろうとして、とにかく儒教道徳を重視します。

清義派の主たる攻撃相手は西洋文明を積極的に訴える人=洋務派でした。西洋の技術を受容し、機械への依存するのではなく、人民の精神を呼び覚ますことが大切だとしました。

反動の動機とは?

清議派の人々は西洋の軍事力を甘く見ていました。西洋との戦争の瀬戸際に立たされた清議派は和平ではなく戦争を主張していたほどです。

清議派は西洋との妥協を拒否します。しかし、本当に西洋を甘く見ていたのかは疑問が残ります。政治的な野心から西洋への強硬姿勢を見せたのではないかと思われるからです。

儒教原理に対する厳格な官僚は昇進することができる一方、外来の人間に媚びへつらう官僚は皇帝の反感を買いました。対外的に強硬な姿勢を見せることが出世競争に有利に働いたのです。19世紀中国では儒教文化が絶対であり、儒教文化を守ることが最重要。昇進したい中級・下級官僚は洋務運動に水を差し、清議派とならざるを得なかったのです。

結果

「自強」運動の試験ー日清戦争

同治中興から始まった改革のテストは日清戦争でした。しかし、戦意を欠く清朝軍と準備万端の日本軍とでは戦力差が明らか。イギリスとロシアの仲介を頼んだ李鴻章の努力虚しく、仲介は不調に。

時の権力者・西太后は祝賀会ばかりに関心がむいており、戦争には興味なし。清朝首脳部も戦争をするモチベーションが全くありませんでした。

敗走を繰り返す清朝。結局、講和条約が締結されるに至ります。清朝の宮廷内部の中に非常に大きな衝撃が走りました。なぜあのような小国・日本に我が国が破れてしまったのか?大きな疑問が清朝を覆いました。

こうして表面上の技術だけではなく制度時代も根本的に改革すべきとした変法運動が出現するようになります。

他方では改革ではもうだめだ。革命をやって根底から刷新するべきだとする革命論も登場します。

同治中興時代の中途半端な改革が日清戦争の敗北につながってしまい、より根本的な改革を求める声が上がっていきました。