二大政党制の起源を探る!アメリカ政党政治の歴史とは?

二大政党制の起源を探る!アメリカ政党政治の歴史とは?

共和党と民主党。アメリカは二大政党制の申し子です。しかし、その起源はどこにあるのでしょうか。実はアメリカでは当初、政党はいらないものと考えられていました。なぜ今のように政治の中で政党が重要な影響を及ぼすようになったのか。この記事ではアメリカの二大政党制の起源を探ります。

反政党の時代と第一次政党制

アメリカは合衆国憲法成立後、本格的にそれまで馴染みのあった君主制から共和制へと舵を切ることになりました。これはラディカルな変更だったため、連邦政府を動かすにあたり大きな困難と戸惑いにぶつかることになりました。

そのため発足直後の連邦政府はワシントン中心の「宮廷政治」の性格を強く持つようになります。ありとあらゆる人や情報がワシントンの元に集まり、ワシントンを中心とした政治が行われました。その中でもエリートが中心となり利害の調整を行うことが多かったため、「宮廷政治」と呼ばれるようになりました。

発足当時の連邦議会は非常に規模が小さく、上院議員は26名、下院議員は65名だけ。政府機関も国務省と財務省、陸軍省しか整備されていませんでした。

連邦議会の議員たちは多くが共に独立革命を戦った旧知の中であり、その多くがワシントンの寄宿舎に住んでいました。そのため初期の連邦議会は議員たちがどの寄宿舎に住んでいるかでその投票行動が決まると言われるほどでした。

しかし、時代を経て連邦政府が徐々に拡大すると党派対立が激化するようになりました。連邦政府を小さくするべきとしたリパブリカンズが勃興し、連邦政府派=フェデラリストに対抗するようになったからです。

連邦政府派(フェデラリスト)のリーダーはハミルトン。ワシントンの右腕です。一方のリパブリカンズのリーダーはジェファソン。ワシントンとも旧知の仲の有力政治家です。

フェデラリストやリパブリカンズの対立は激しさを増していきましたが、本来の共和主義では党派対立はあってはならないことです。なぜなら共和主義は一つの共通善を実現するために活動するものだからです。

党派対立は共通善が複数存在することを意味し、共和制の原理が崩れることになってしまいます。ワシントンは両党派の調停に乗り出します。ワシントンはハミルトンを財務長官、ジェファソンを国務長官に任命しました。

結局はこの調停はうまくいかず、ハミルトン中心に政策が作られるようになっていきます。ワシントンはフェデラリストに親近感を持っていたためです。ハミルトンにより懸案事項であった合衆国銀行が設立しました。

建国当初の外交ではイギリスとフランスのどちらと関係を深めるのかが難問でした。イギリスは元宗主国であり、大西洋を支配するなど非常に親近感のある存在。一方のフランスはアメリカから遅れて共和制を目指している国で、政治理念として共感できる相手でした。

経済を発展させたいフェデラリストはイギリス、共和制重視のリパブリカンズはフランスとの関係構築を狙います。当時はフェデラリスト中心の政権であったため、アメリカはイギリスとの関係を深めていきました。

この時期の党派対立はアメリカ史上初めての政党システムであり、第一次政党制と呼ばれています。しかし、互いが互いの政党を正統性のあるものと認めていなかったので実質的な政党システムが成立していないとする説もあります。

ワシントンが政界から離れるとリパブリカンズが巻き返し、勢力を伸ばします。1800年には選挙構造の間隙をつく形でリパブリカンズが初めて政権を獲得しました。これを「1800年の革命」と呼びます。当時、政権交代は当たり前のことではなく、革命に匹敵する事象と考えられたからです。

これ以降、連邦レベルの選挙ではフェデラリスト対リパブリカンズで戦われ始めました。地域的には北東部ではフェデラリストが優勢、南部ではリパブリカンズが優勢でした。

地域ごとに支持政党が異なる背景には産業構造の違いがありました。リパブリカンズは農業地域で支持され、フェデラリストは北東部の産業地帯で支持を集めます。なお両者の対立は連邦レベルだけでした。州レベル以下ではローカルな対立のみが存在しました。連邦レベルと州以下のレベルでは異なる政党制が出来上がっていたのです。

両者の激しい対立が続くのもわずかな期間でした。次第にフェデラリストは勢力が弱体化していきます。ワシントンやアダムズが政権を去った後、有力な指導者が出現しなかったからです。

一方のリパブリカンズはジェファソン以降、フェデラリスト顔負けの産業政策を行います。フェデラリストは存在意義を失い、消滅していきました。

これによりリパブリカンズは一党体制を形成しました。これにより陰惨な党派対立は終わり、1810年頃から政党政治に対する「好感情」の時代へとなっていきました。これ以降、ジェファソン、マディソン 、モンローの24年間はすべてヴァージニア出身者が大統領を務め、「ヴァージニア王朝」が形成されました。

しかし、一党制の後には対立の時代がやってきます。リパブリカンズの党派対立が生まれました。ナショナルリパブリカンとデモクラティックリパブリカンの戦いです。

二大政党制の成立と第二次政党制

第二次政党制の成立

第一次政党制からの転機になったのが1824年の大統領選挙でした。この選挙では初めて複数の候補者が出馬しました。J. アダムズ と A. ジャクソンです。

当時の大統領選挙は副大統領選挙と大統領選挙が同じ選挙で争われ、得票一位が大統領、二位の候補者が副大統領になる規定でした。1824年選挙では一位がアダムズ、二位がジャクソンとなり、アダムズが大統領、その副大統領がジャクソンとなりました。

敗れたジャクソン派は選挙後、支持者を結束させ、大統領選挙に大衆を動員できる政党組織を作りあげました。この政党組織のおかげで次の1827年大統領選挙ではジャクソンが圧勝します。ちなみにこの時にジャクソン派が作った政治団体が現在の民主党のルーツになっています。

ジャクソン派の組織運営をみたアダムズ派も全国に政党組織を作り出しました。これがホイッグ党です。

こうしてアメリカに大衆を基盤とする全国的な二大政党制が確立しました。この時期を第二次政党制と言います。

二大政党制が確立するとそれぞれの党の意思決定方法も民主的なものへと変貌していきます。以前は大統領候補がコーカスと呼ばれる議員総会の場で密室的に決められていました。しかし、この時期になると地方・州・全国の3層構造の党大会制度が作られ、重層的で民主的な意思決定システムとなりました。

地方党大会では地域の選挙区の候補者や政策綱領が決定されていました。これが全国の各地域ごとにで行われていたため、一つの政党でも多くの政策綱領が存在していたことになります。

ちなみにアメリカでは党員制度が存在しません。党組織が地域の隅々まで張り巡らされ、地域の支持者を把握することができるからです。そのためわざわざ党員システムを整える必要がありません。これにより党大会には党員ではなく支持者が参加します。その支持者が参加する党大会では州レベルの党大会に代議員を送り込むのも大切な役割でした。

全国党大会は4年に1回のペースで行われ、大統領候補が決定されました。この決定に際しては州レベルの党大会で選ばれた代議員が党大会に出席し、意思表明を行いました。

第二次政党制の時期は普通選挙も全国に浸透していきました。普通選挙と二大政党制が浸透したこの時期の政治を「ジャクソニアン・デモクラシー」と呼びます。

第二次政党制はアメリカ社会に民主主義の定着をもたらしました。しかし、その民主主義は白人男性のための民主主義であり、それ以外の人々は民主主義から排除されました。そのため政治家にとってはいかに白人男性の支持を取り付けるかが重要でした。

最後になぜ民主党も共和党も全国化を目指したのかについて確認しましょう。

アメリカでは大統領選挙に勝利すると大きな利権を得ることができました。その中でも公務員ポストが得られる点で非常に重要視されました。

当時、連邦政府の大きな役割は郵便制度であり、大統領選挙に勝利すれば各地域の郵便局長のポストを自由に配分できました。

選挙に勝った政党や大統領が利権を配分できるシステムを猟官制と言います。そのため当時は政権交代が起きると連邦公務員がすべて入れ替わっていました。他にも関税を助成金として配分するのも大きな利権でした。

利権をめぐる協力として政党が組織されたため当時の政党は特定のイデオロギーにまとまって結びついていませんでした。そのため時代時代の政策テーマに応じて政党の離合集散が行われました。

19世紀政党政治の文化

政党と支持者の関係

最後に19世紀のアメリカの政党制の特徴についてです。

当時の政党は全国・州レベルの組織が弱く、地方レベルが強い組織力を持っていました。全国・州レベルの組織は大統領選挙と州知事選挙の際に組織されるだけでした。そのため政党として安定的な綱領や党員制度は存在しませんでした。

結果的に地方レベルの党大会が政党の権力の源泉となりました。支持者は政党に対して非常に強い愛着を持ち、政党は支持の見返りに支持者に多くの恩恵を与えました。政党と支持者はパトロネジ関係によって結びついていました。

しかし、大都市では政策テーマが変わるごとにコロコロと支持政党を変える無党派層も多く存在していました。

「政治における教会」としての政党と有権者

19世紀の新聞は党派と結びついており、客観報道は存在しませんでした。記事そのものが支持政党のフィルターを通じて作られていたからです。

アメリカはやたらに選挙が多く選挙がない時でも政党関連のイベントが頻繁に行われ、徹底した動員が行われました。この時期はまさに政党の時代。政党を通じて世界を見ると言われるほど人々と政党の距離が近い時代でした。当然のように無党派は珍しい存在で投票率も高水準でした。