急拡大!アメリカの連邦制と領土拡大の歴史について解説!

急拡大!アメリカの連邦制と領土拡大の歴史について解説!

この記事ではアメリカの連邦制の歴史について解説しています。アメリカは連邦制が政治体制の特徴。その特徴を検討するためにはやはり連邦制が辿ってきた歴史を学ばなければなりません。その連邦制の裏側にはアメリカが近代国家としてはめずらしい領土拡大を経験していることがありました。

連邦制の意義

まずアメリカにおける連邦制にはどのような意味があるのかについて検討してみましょう。

連邦政府の権限の範囲をめぐる論争

当時のアメリカでは連邦制の中で連邦政府の権限はどこまで認められるのかが大きな論争を呼んでいました。

具体的には、新たにアメリカが領有することになった領土を誰が管轄するのかについての議論が交わされました。その問題は究極は連邦政府の管轄がどこまで及ぶのかの議論が必要でした。

そもそも連邦制は独立時に制定された合衆国憲法にて作られたとみなされがちですが、その合衆国憲法には一言も連邦制について定めがありません。そのため多くの論争を呼んできたと言えるでしょう。

しかし、合衆国憲法の中には必要な立法が連邦議会によって行われる権利があることを述べています。これを根拠に連邦制が存在するとして、連邦議会はアメリカ全土に適用可能な法律を立法を行っていました。

当時の議会多数派・リパブリカンズは連邦議会に多くの権利を認め、次々と政治を前に進めていきます。領土拡大はその最たるもので1803年にはルイジアナ購入が行われました。この領土獲得の際も大統領の領土購入権が認められているのかが問題になりました。国内のインフラ整備についても連邦主導で行われました。連邦政府がインフラ整備を行うことももちろん憲法には書いてありません。すべてがグレーの中で行われました。

連邦政府の中でも当然どこまで連邦政府がやっていいのかに関する対立がありました。

ジャクソン大統領による国法銀行廃止は大きな議論をもたらしました。これに対して連邦議会は拒否権を発動します。当時の合衆国憲法では明らかに違憲の法案に対しては議会による拒否権発動が認められていたからです。

州も曖昧な権限を行使する連邦政府に強い態度を取るようになりました。連邦銀行・国法銀行発行が発行する紙幣に対してメアリーランド州が課税を行いました。この行動に対して連邦も州を超えた経済活動と独自の課税は認められないとして、このメアリーランド州の措置を否定しました。

いずれにせよ連邦政府の権限が明確でなかったからこそ、州も連邦政府に対して反抗的となり、両者の関係はギクシャクしたものとなっていました。

領土の拡大

急速な領土の拡大

建国から19世紀にかけてアメリカの領土はほぼ5倍になりました。以下、アメリカが領土を拡大させた事象を箇条書きで確認してみましょう。

  • ルイジアナ購入(1803年)
  • テキスト併合(1845年)
  • オレゴン獲得(1846年)
  • カリフォルニア・南西部獲得(米墨戦争、1848年)
  • ガズデン購入(1853年)
  • アラスカ購入(1867年)

先住民の排除…武力紛争から条約締結による土地取得へ

領土の拡大はそこにいた先住民と白人側の対立をもたらしました。白人側は先住民側から土地を「割譲」してもらうとの建前で次々と先住民を追い払っていきました。

追い払われた先住民たちは故郷からはるか遠い土地へと移動せざるを得ませんでした。中でも1830年の強制移住法は悪名高い法律として有名です。強制移住法によって多くの先住民が不毛の土地・オクラホマ州へと移動させられたからです。

1838年のチェロキー族による「涙の旅路」は非常に過酷な移住として有名で、移住する過程だけで4分の1のチェロキー族が死亡したと言われています。

強制移住と並行して先住民との戦争も継続的に行われ、その人口は激減していきました。現在ではこの時期の先住民政策をジェノサイドと呼ぶ人もいるほどです。ドーズ法では白人への同化政策が始まり、一先住民の権利が保護されることはありませんでした。先住民を排除することで連邦政府による国家形成は前進していきました。

「明白なる運命(manifest destiny)」?西漸運動の展開

先住民を排除した土地には白人による入植が始まりました。イギリス統治下では西部に進出されることが許されなかったため、独立後はまさに堰を切ったように入植していきます。

西漸をするに当たっては同緯度にまっすぐ進んでいく方法が取られました。同緯度に進むと同じ作物を育てられる土地が得られるため農業的な価値が高いと考えられたからです。開拓は多くが家族単位で行われました。家族単位で開拓し、複数の家族がまとまって暮らすことで先住民からの襲撃に備える防衛機能も果たしていました。

当時のアメリカでは self-made-man が理想とされていました。自らの足で立つ人間が理想の姿とされ、そこには男女の差もありませんでした。そのため男女の平等意識が強く、参政権でも西部の州の方が早く女性参政権が付与されました。

しかし、19世紀半ばにカリフォルニアを中心として盛り上がったゴールドラッシュの炭鉱労働者として西部には男性ばかりが移住したため、参政権付与によって女性を西部へ引きつける側面もありました。

この西漸運動は「明白なる運命」とする考え方で根拠づけがされました。アメリカ人が西部開拓を進めるのは神から与えられた「明白なる運命」であるという認識です。しかし、これまで見てきたように非常に残酷な先住民の撲滅を伴うものでした。

国内開拓が終わると国外に領土を求めていきます。アメリカの太平洋進出も「明白なる運命」によって正当化されました。アメリカは積極的に西部開拓を行うことで土地と人口と資源を獲得し、大国への道を進んでいったのです。

奴隷制の拡大とその政治的意義

西漸運動に伴い領土が拡大していくと必然的に奴隷制も拡大していくことになります。ここでは領土拡大の中で奴隷制がどのように与えられたのかを確認します。

「ミズーリの妥協」(1820年)

領土が拡大する中で、人口が多いのは圧倒的に北部でした。人口ベースでは自由州が奴隷州を圧倒するようになります。連邦議会下院でも自由州出身の議員が多くを占めるようになり、南北の政治力の不均衡が問題になりました。

南部は奴隷州と自由州の数を同じにすることで政治力のバランスを取ろうとします。奴隷州と自由州を同数にすれば上院で同じ数の議員を確保することができるからです。

この奴隷州・自由州同数政策の対立が生まれるのが1819年のことでした。この時、ミズーリ準州は奴隷州として州の昇格を望んでいました。しかし、ミズーリ州が奴隷州として昇格すると奴隷州と自由州のバランスが崩れてしまいます。

これに対応するために当時、自由州として独立を希望していたマサチューセッツ州の中にあるメーン地域を自由州として独立させることで決着が図られました。

この1820年の自由州と奴隷州の間の妥協は「ミズーリの妥協」と呼ばれ、これ以降、ミズーリ以南の地域のみで奴隷州を作ることと奴隷州と自由州を同じペースで作ることが認められました。

当時のアメリカでは反奴隷制協会が設立するなど反奴隷運動が盛り上がりを見せていました。この反奴隷運動の盛り上がりはカリフォルニア州の自由州申請に対する奴隷州の設置をめぐっても大きな論争となりました。

「1850年の妥協」

1850年には南北間での奴隷制をめぐる対立が激しくなっていました。奴隷制廃止を求める国際世論の圧力を受けて、奴隷制が外交問題にも発展していました。中でも奴隷を売り買いする奴隷市場が問題視されていました。最終的には妥協が成立し、カリフォルニア州は自由州として昇格しつつ、奴隷市場は廃止されました。

南部はこれと同時に逃亡奴隷法を成立させました。この法律は奴隷が奴隷州から自由州に逃げ込んだ場合にどのように対応するのかを定めるもの。北部にとって受け入れがたい内容でした。種々の論点を内包しつつ奴隷制をめぐって南北の対立が激化していきました。

当時の白人は南北を問わず奴隷制について拡大しないと息絶えてしまう制度であると考えていました。当時の奴隷制を用いて作られたタバコや綿花などの商品作物は土地収奪的な作物であるため、同じ土地で継続的に農業をすることができないからです。

しかし、領土に限界がある以上、奴隷制の拡大もどこかで限界を迎えます。奴隷制度はいずれどこかで頭打ちになると考えられていました。

北部はこの理由から奴隷制の拡大に楽観的な姿勢をとりつつ、奴隷制に反対します。アメリカ合衆国の建国の理念や神の下での平等に反する制度であると考えていたからです。しかし、本音としては南部の政治権力が奴隷制を通じて大きな権力を持っていることが不満でした。

南部は北部からの批判に対して、黒人は自分たちよりも能力が劣っているので奴隷として白人である我々が保護していると主張しました。

さらに南部は北部の社会について南部を批判するほど望ましい社会ではないと主張しました。北部の産業社会を批判し、人間がお金をもらうために工場労働者として労働することは自由人のすることではないとの主張を展開します。南部より北部の方が不自然な賃金奴隷制によって踊らされている歪んだ社会と考えられたのです。

まとめ

アメリカの領土拡大は世界に類を見ないスピードで進展し、それが連邦制の意義や奴隷制をめぐる国内対立を先鋭化させることになりました。

正義と正義がぶつかる不安定な状況の中、アメリカの目の前には南北戦争が迫っていました。