植民地時代から独立までのアメリカの歴史をわかりやすく解説!

植民地時代から独立までのアメリカの歴史をわかりやすく解説!

この記事では植民地時代から独立までのアメリカの歴史について詳しく解説しています。イギリス植民地時代から戦争を通じて独立した経験が今のアメリカ社会の特徴を作っています。独立までの経過を確認することでアメリカへの理解を深めていきましょう。

イギリス植民地の形成と発展

植民地の建設

西洋諸国が北米大陸への進出を始めたのは1492年にコロンブスが北米大陸を発見してからでした。フランスやスペインが先んじてアメリカ大陸に進出し、イギリスは一歩遅れて新大陸へ入っていきました。

イギリスにとって1607年に入植したジェームズダウンがアメリカ大陸初の植民地でした。イギリスの植民地経営の特徴はゼロサム的であること。現地民とのウィンウィンの関係を模索せず、徹底的に搾取していきました。

ジェームズタウンではイギリスから持ち込まれた病原体などで多くの先住民が死亡。そこで1619年には初の黒人奴隷が導入されました。

ジェームズタウンへの入植成功に続き、1620年にはピューリタンたちが宗教的・経済的な自由を求めメイフラワー号でプリマス・ロック(後のマサチューセッツ)に到着しました。

プリマス到着を契機に本格的な入植が始まり、1732年には13植民地が形成されてゆきます。そのすべての植民地でイギリス国王の認可の元、自治が認められました。

この13植民地は主に以下の3種類に大別されます。

  1. 会社植民地:経済的利益を求めるためにある植民地。出資者に還元することが目標
  2. 自治植民地:宗教的自由を求めた植民地
  3. 領主植民地:イギリス国王からの許可を得た領主が治める植民地。領主の方針がくっきり出る。

13植民地には奴隷以外にも自由人でない身分の人がいました。年季奉公人はその代表例です。年季奉公人は借金を肩代わりしてもらった人の元で奉公する人のこと。13植民地には身分制が残っていたのです。

以下、より詳しく植民地社会がいかに発展していったのかを見ていきましょう。

植民地の発展

植民地の発展を担ったのは本国のミドルクラスの人たちでした。移住するには情報や金銭面でのリソースが必要だったため、比較的裕福な人たちがアメリカには渡っていたからです。

ミドルクラスの人々は識字率は高く、このことは独立運動の展開にも影響を及ぼしました。(例:コモン=センスが読める)

植民地は地域によってそれぞれの特徴を持っていました。北部のニューイングランドは早くから民主制が発達した自由な雰囲気。中部植民地には領主植民地が多く、北部と比べて比較的多様な社会システムが発達していました。南部では早くから奴隷貿易が盛んになり、プランテーション農業を中心とした社会が作られていました。

植民地全体では総督、植民地議会、裁判所などの統治システムが整備され、植民地人は強い自治意識をもち、日々の生活を営んでいました。

本国からの干渉と植民地の不満

有益なる怠慢からの転換

イギリスは13植民地に対して「有益なる怠慢」と呼ばれる方針をとっていました。「有益なる怠慢」とは13植民地すべてに自治権を与え、その自治には介入しない方針のことです。

しかし、17世紀後半の国内での政治的混乱と18世紀前半の北米大陸でのフランスとの戦争がイギリスの13植民地に対する経営方針に影響を及ぼすことになりました。

18世紀始めのフランスとの戦争を終えると相対的にイギリス政治は安定していきました。イギリスは内政混乱と戦争での損失を回復するべく13植民地からの搾取を強化するようになります。イギリスは課税の強化や各種規制の強化、本国からの常備軍の駐留などを決定しました。

本国の圧力強化に植民地側も対抗します。組織的な抵抗運動を行い本国へ不満をぶつけていきます。しかしこの抵抗運動がすぐに独立運動へと発展したわけではありませんでした。人的な被害を出さない形で抵抗が行われたからです。

植民地の不満の要因

ここでは植民地人の不満の背景をより深く探ります。

まず課税に関する不満があげられます。そもそもイギリス憲法では植民地に適用される法律の立法は植民地議会だけに権限が与えられていました。

しかし、イギリスは植民地に対して課税を可能にする法案を本国議会で可決してしまいました。しかもこの植民地課税法案は本国議会に13植民地からの代表が送り込まれることなく可決されました。そのため植民地では「代表なくして課税なし」との考えから本国に対する不満がより一層高まりました。

これにより植民地と本国の関係の原理が壊されたたため、植民地内では共和制が崩壊するのではないかとの危機感が芽生え始めました。

本国による法案の一方的な採択をしたことは植民地内で本国が共和政から立憲君主制へとかじを切ったシグナルと見做されたからです。

植民地人は共和政の理念を守ろうと「専制国家」となった本国からの離脱を決心し独立への機運が高まっていきました。植民地にとって独立は本国との経済的な恩恵をかなぐり捨てる行為です。しかし、植民人は経済的なメリットよりも理念を守ることを優先したのです。

1773年に発生したボストン茶会事件を契機にイギリス本国と13植民地は一触即発の状態へとなっていきました。

独立へ

独立への機運の高まりと戦争の始まり

植民地側の独立の機運が高まる中、まず1774年に大陸会議が設置されました。大陸会議は連邦議会の起源とされる会議体です。

1775年にレキシントン=コンコードの戦い本格的な戦闘が開始されました。

1776年1月には『コモン=センス』が発表され、独立戦争に対して理論的な裏付けがなされました。

植民人の中でも独立戦争に対するスタンスは分かれました(Patrots/Royalisuts/Tories etc)が内部分裂とまではならず、比較的まとまった戦闘が行われました。

独立と共和制への移行

1776年7月4日には独立宣言が採択され、基本的人権の尊重が発表されました謳われました。ちなみに自由を自然権として拡大解釈するところにアメリカ独立宣言の独特さがあります。

各州が自治権を持ち独自に憲法を制定することで共和制へと移行していきます。それぞれの州憲法では執行権が抑制された点に特徴が見られました。

1777年には連合規約が採択され、1781年に成立します。これにより連邦政府の原型が出来上がり、対外関係と諸邦の調整役として機能し始めました。

まとめ

地域ごとによって異なっていた13植民地も独立戦争の際にはまとまりを持って本国に対抗しました。その結果、独立を勝ち得たわけですが、そのニュアンスとしてイングランドが失いつつあった共和主義の理念をアメリカで復活させようとする意味合いがあった点がなかなか興味深いと個人的には思いました。

現在でもアメリカは共和主義国家として存続し続けています。その共和制の起源は独立戦争にまで遡ることができるのです。