アメリカ合衆国憲法はどうやってできたの?詳しく解説します

アメリカ合衆国憲法はどうやってできたの?詳しく解説します

この記事ではアメリカの憲法・合衆国憲法がどのようにできたのかを解説しています。合衆国憲法は18世紀に成立して以降、現在でもそれほど変わっていません。そのためどのようにできたのかについてが理科することが今の合衆国憲法を理解する上でも重要です。

連合体制と「危機の時代」

各邦での共和制

独立を達成してから、各邦(state)では成文憲法に基づく急激な民主化と議会中心の統治が行われ始めました。しかし、この共和制の実験は行き詰まりを見せます。議会の執行権が抑制されていたからです。そのため、議会は問題解決能力がなく、各邦の間の問題を解決することができませんでした。

連合規約体制(1781〜)の限界

連合規約体制自体にも大きな問題がありました。まず連合会議の資金不足も深刻でした。各州からの分担金によってなんとか連合体制を維持していました。

しかも各邦のまとめ役であるはずの連合会議にも混乱を収拾する力がありませんでした。連合会議には徴税・通商規制権が与えられなかったためです。執行権が不在の状態が続き、連合規約の下での体制に限界が見えました。

この時代はそれぞれの州が様々なタイプの統治システムを試行錯誤する時代。大統領制や議院内閣制の邦がバラバラに存在していました。そのためリーダーの任期や権限などについても州によって異なり、非常にまとまりのない状態でした。

バラバラな状態の州が集まれば統制が取れないのは当たり前です。しかし、連合会議が何かしらの決定を行うには13邦のうち9つの邦が合意しなくてはなりません。しかも、連合規約を改正するにはすべての州の同意が必要と連合規約を現実に合わせるのにも困難な状態が続きました。

混乱状態を打開するために1786年にアナポリス会議が開催されました。この会議では連合会議に規約改正を検討する会議を召集することが決定されました。

連邦制へ:憲法制定会議(1787年5月〜9月@フィラデルフィア)

憲法制定会議とその政治力学

続く混乱への処方箋としてついに合衆国憲法の作成と連邦制を導入することが検討され始めました。まず1787年5月〜9月にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催されました。

イギリスの伝統は不文憲法です。慣習こそ憲法であり、慣習をわざわざ成文化する必要はないとの考えが根強いものでした。

しかし、イギリスから独立したアメリカでは急激な政治体制の変更が行われようとしていたため、憲法を成文化することで政治体制を明確化しようとしました。

会議への正統性を与えるためにまずワシントンが議長に任命されました。ワシントンはそれまでより強力な権力を中央政府に与える方針を固めます。

憲法起草の中心となったのはマディソンでした。マディソンは古今東西の政治体制を研究し、当時としては最も先進的な憲法草案を提出しました。この草案はヴァージニア案と名付けられました。

ヴァージニア案では13州を実質的な単一国家とすることが盛り込まれていました。ワシントンの意向を汲み、中央政府に権力を配分した点がラディカルで、革新的な案だと評価されました。しかし、ヴァージニア案では上院でも下院でも各州に対して人口に応じた議席配分を行うとしたため、人口規模の小さい州から反対が相次ぎました。

憲法制定議会にはヴァージニア案とは別に提出されたのがニュージャージー案でした。ニュージャージー案では地方分権的で中央政府に強い権力を持たせない政治制度が想定されていました。

憲法制定会議では大規模州と小規模州の対立が対立軸となり、議論が交わされましたが、対立軸はそれだけではありませんでした。

奴隷制の可否も対立も有力な対立軸となりました。奴隷制を導入する邦(奴隷邦)と奴隷制を導入しない邦(自由邦)は特にヴァージニア案をめぐり、対立を深めました。

ヴァージニア案が導入された場合、人口によって連邦議会の議席配分が変わります。そこで奴隷を人口の中に数えるのするのかが大問題となったのです。

以上のような対立の根底にあるのはアメリカという国家に対するヴィジョンをめぐるものでした。中央集権か分権かをめぐる対立は容易に解決できるものではなったのです。

「妥協の束」としての合衆国憲法案

どれほど中央政府に権力を与えるかをめぐる対立は最終的に地方政府の存在を認めることで妥協が図られました。地方政府を設けた方が住民本意の政治が行われると考えられたからです。こうして最終的な合衆国憲法が生まれました。様々な対立軸になんとか折り合いをつけた形で成立したため、合衆国憲法は「妥協の束」と呼ばれています。

地方政府の設置が認められたため、合衆国は地方分権的なシステムとなりました。主権は連邦政府と各州に与えられましたが、主権の源泉は人民にあるとされた点が画期的でした。

それまで曖昧で薄弱だった連合政府の執行権も必要に応じて認められるようになり、徴税権や州間の通商禁止が連合政府によってなされました。

ヴァージニア案で問題になった代表選出の制度についても妥協が図られました。上院は各州から一律2名選出され、下院は州の人口に応じて配分されることとなりました。

奴隷に関しては1体あたり5分の3人として数えることが決まりました。他にも間接選挙による大統領を選出が決定されました。間接選挙のアクターとなる各州の大統領選挙人はその州の上院・下院議員を合わせた数となりました。

まとめ

アメリカでは憲法制定までには多くの対立軸がありました。妥協によってなんとか憲法成立を実現したものの、当時議論されたことは後の時代でもアメリカ社会で問題になることばかり。アメリカが抱える問題は一定の普遍性があることがわかります。

それでも当時の最先端の政治学の粋を集めた合衆国憲法の下で、共和政の理念を実現するべくアメリカ合衆国は船出することになりました。