モンロー主義とは?アメリカ外交の歴史を振り返る!

モンロー主義とは?アメリカ外交の歴史を振り返る!

この記事ではアメリカの外交の歴史について建国当時から20世紀までざくっと解説していきたいと思います。

アメリカの外交政策はアメリカが辺境の弱小国から世界最大の覇権国になる過程で変化してきました。今回はアメリカの外交政策を建国当時から振り返ります。

初期共和国と外交

あえて何もしない外交

アメリカは建国して間もなくは積極的な外交政策を採りませんでした。そこには内政に集中への集中する方針とアメリカの政治体制と深く関わっています。

19世紀のアメリカは現在とは全く異なる世界的な地位にありました。現在は世界の覇権国ですが当時はただの弱小の辺境国。国際政治のメインステージ・西ヨーロッパからも大西洋を隔てて大きく離れており、アメリカは外交を積極的に進めるインセンティブに欠けていました。

アメリカには外交を行うメリットがあまり感じられませんでした。しかし、アメリカはあえて外交をしなかったと見ることもできます。これを理解するためにそもそも外交とは何か?を確認しましょう。

そもそも外交とは?

外交は元々「対外関係」を意味する言葉でヨーロッパに起源を持つ概念です。君主制の中で王に任命された外交官同士で交渉するのが外交の王道でした。

そのため主権者の代理人である外交官の個人的なつながりが外交を動かし、秘密裏で外交交渉を行うケースがほとんどでした。外交官の裁量も大きいため外交官同士で独特の外交儀礼が形成されました。

「外交」と民主主義の板挟み

この元々の外交の形からアメリカはまったく異なる形で外交を行おうとしました。アメリカは共和政です。そのため主権者は国民であり、対外関係の展開の担い手は大統領でした。その大統領も自由に外交を進めることができるわけではなく、合衆国憲法で議会の助言と承認を必要としていました。

初代大統領・ワシントンはこの「助言」ルールを忠実に守り、議会にて律儀に外交交渉の内容を逐一報告します。交渉内容を公開してしまうワシントンの行動に多くの外国から不満の声が出ました。外交は元々秘密交渉で行うものと考えられていたからです。

大統領は「助言」の規則と交渉相手の板挟みに合い、次第に外交交渉の内容を日常的に議会では報告しなくなりました。しかし、アメリカにとって秘密裏に外交交渉を行うことも大きな問題となりました。

アメリカは民主主義の国。それぞれの政策について政府は説明責任を果たす必要があります。しかし、秘密裏の外交交渉を行えば、政治家は国民に説明責任原則を果たせず、民主主義の原則と大きな緊張関係を持つことになります。このことをフランスの哲学者・トクヴィルはいち早く見抜いていました。彼は著書の中で

アメリカ政治は美点を数多く持っているが対外政策になるとすべて欠点になる

と述べています。

外交官同士が個人的な信頼関係を構築した上で交渉を行うのが外交交渉の基本です。しかし、この点でもアメリカは不利な状況にありました。なぜなら建国当初のアメリカでは官僚はすべて政治任用であり、政権交代が行われれば確実にポストが入れ替わったからです。短期間で担当者がコロコロと変わるので外交官同士が信頼関係を構築するのが困難となりました。大使や公使ポストもそれまでの論功人事の側面が強く、外交交渉を行う姿勢は見えませんでした。

しかもアメリカが大使級の官職を設置したのが20世紀に入ってから。ちなみにアメリカの外交を司るのが外務省ではなく「国務省」なのはこの時期のアメリカにとって対外政策のプレゼンスが低かったことを示しています。アメリカでは20世紀に入ってから現在のような外交や軍事、条約に関する専門知識を持った人間が育成されるようになりました。

19世紀まで外交交渉ではフランス語が使われるのが一般的でした。英語しか話すことのできないアメリカ人外交官はこの点でも不利になりました。この点をヨーロッパの外交官はなじるわけですが、アメリカもヨーロッパ外交をただお高く止まっていると馬鹿にしており、両者の関係はなかなか折り合いがつきませんでした。

しかしアメリカはそのことを意に介しませんでした。ヨーロッパに合わせないことが自らの国益に叶っていると考えていたからです。アメリカの成立の起源は七年戦争。アメリカにはヨーロッパの揉めごとに巻き込まれて、迷惑を被ってきた歴史がありました。下手にヨーロッパと外交を行い、ヨーロッパの揉め事に巻き込まれてもいいことはないとわかっていました。

建国当初のアメリカは国内政治も安定せず、その状況のまま対外政策を行っても対外政策のせいで国内分裂が先鋭化してしまう可能性がありました。

「無料の安全保障」と英・仏との関係

19世紀のアメリカの国際的な地位は「無料の安全保障」を持つ辺境国との位置付けです。国内分裂の危険を犯すよりは大西洋という自然の要塞があるのだからわざわざヨーロッパに出ていく必要はないだろうと考えられていました。

例えば、ジョージワシントンは大統領の任から離れる際の「告別の辞」で

外国からの影響を受けることで共和制が壊れる可能性がある。特定の国とばかり親交を深めることはあってはならない。同盟関係を結ぶなど持ってのほかである。

と述べました。

しかし、実際には外交的なスタンスの違いから国内での対立に発展していった例があります。

フェデラリストは国力増強、産業発展を1番の優先として、イギリスとの関係発展を重視していました。当時のイギリスはアメリカにとって最大の貿易相手国であり、大西洋の制海権を握っていたため、イギリスと良好な関係を持つことはアメリカの国力を伸ばす点で有利でした。

リパブリカンズはフランスに対して好意を持っていました。リパブリカンズは共和制の実現・維持に重きを置くため、共和制を実現していたフランスに対して好意的だったからです。

1794年に締結されたジェイ条約をめぐる対立は両者の国内対立の延長線上にありました。ジェイ条約は米仏貿易に干渉しようとして緊張した米英関係をの緩和のために結ばれた条約です。

ジェイ条約の結果、米英関係が妥協に向かったためフランス派のリパブリカンズはアメリカ政府への反発を強めました。リパブリカンズの反発にフェデラリストも1798年に外国人法・治安法を制定。これによりフランス人がアメリカ国内でアメリカ人を煽動することを禁じました。

以上のように対外政策のスタンスの違いが国内の内政の混乱をもたらしました。

アメリカの政治家も対外政策が国内分裂につながることの危険性は理解していました。しかし、ヨーロッパとの関係は切ることはできません。例え政治的な関係を切ることができても経済的な関係を結ばないわけにはいかないからです。

結果的にアメリカは英仏両国と貿易関係を結びますが、対立関係にある英仏両国はお互いがお互いの対米貿易を邪魔しました。その結果、1812年には米英戦争が発生します。この発生原因はナポレオン戦争に伴う英仏の海上封鎖と交易妨害でした。フランスがアメリカにイギリスの海上封鎖に関する嘘の情報をでっち上げイギリスを悪者に仕立て上げたため戦争にまで発展してしまいました。

米英関係が悪化していた背景にはアメリカとカナダの関係もありました。カナダはイギリスの植民地であり、植民地であるがゆえにイギリスと手を組んでアメリカに対して数々の「ちょっかい」を行っていました。そのためアメリカは折に触れカナダへの侵略を考えるほどでした。

米英戦争は3年間行われ、ベルギーで条約が結ばれ終了しました。しかしアメリカに戦争が終わったのが知らされたのはなんと1年後。条約締結後も1年間はなんの意味もない戦闘が行われ続けたことになります。

以上のようにアメリカにとってはやはり英仏との関係をどのように構築するかをが問題になりました。しかし、この難問が永遠に続いたわけではありませんでした。

1848年からはウィーン体制がヨーロッパで成立し、アメリカの国内でも政治的秩序が生まれ始めたからです。この頃からヨーロッパの君主制とは異なるアメリカの共和制を守らねばならないと考えられるようになりました。その方針が外交政策として発露したのがかの有名なモンロー・ドクトリンでした。

モンロー・ドクトリン(1823年)下の対外政策

モンロー・ドクトリンの背景

上述のようにヨーロッパの君主制に対してアメリカは共和制を守る方針が鮮明になりました。アメリカは方針をラテンアメリカ世界にも広げていきます。

この文脈の中で現れたのが「モンロー・ドクトリン」でした。モンロー・ドクトリンは主に3つの内容から成ります。

1つ目が非植民地化です。アメリカは新たに独立する国を植民地化することは許さないとするものです。

2つ目が非干渉です。ヨーロッパが南北アメリカに対して君主制を押しつけ輸入することは認めないと明言しました。

3つ目が自制・錯綜関係回避です。

ヨーロッパからの干渉には反対しつつ、アメリカもヨーロッパの内政問題や戦争に干渉せず、同盟関係にも入らないことを明言しました。

モンロードクトリンはヨーロッパ諸国に対してアメリカが西半球側諸国の盟主であることを認めさせる内容となりました。これによりヨーロッパに対しては孤立主義を取りつつ、ラテンアメリカ各国に対してはアメリカを中心とした秩序をとるように求めていくことになりました。以後、アメリカはこのモンロードクトリンに基づいた対外方針が取られるようになり始めました。

地域別の対外政策

ここではモンロードクトリンに基づいたアメリカの地域別の政策を確認していきます。

領土拡大

このモンロードクトリンには裏のメッセージが隠されていました。ヨーロッパに対して西半球に対する不干渉を要求する一方で自らは西半球での領土拡大政策を実行するというものです。

領土拡大にあたって根拠となったのがフロンティア開拓のために用いられた「明白な運命」の考え方でした。すでに西海岸に到達していたアメリカは太平洋やラテンアメリカに対して進出する際もこの「明白な運命」を用いて領土拡大を正当化しました。

カナダとの関係

南北アメリカから君主制を排除するにあたり厄介なのがカナダの存在でした。カナダは君主制の国であるイギリスの植民地であり、アメリカが独立戦争を戦う中で王党派の人間が数多くカナダに逃亡していました。

反体制派の人間が多く住んでいたためアメリカにとってカナダは反体制拠点に他なりません。イギリスとの戦争の中でカナダを征服しようとする試みが存在したのも以上のような背景がありました。

アメリカはイギリスとの関係が悪化するとカナダ侵攻論が表出する傾向にあり、特に南北戦争時の征服論は有名です。

結果的にアメリカに征服される危機感からカナダは連邦制を成立させたためアメリカに対して親和性の高い政治制度となり、アメリカとの関係は穏やかになっていきました。

カナダはアメリカと19世紀半ばまでは緊張関係にありましたが、徐々にイギリスから独立するとアメリカとの関係は良好になっていきました。

ラテンアメリカとの関係

ラテンアメリカではアメリカが自らが共和国の先輩として多くの国を庇護下においていきました。

カリフォルニアなどへの領土拡大も共和制の拡大という正義の実現のためでした。ラテンアメリカに対して庇護者として振る舞う姿勢が一番明確にあらわれたのが南北戦争でした。

南北戦争時、混乱するアメリカの背後にあるメキシコにフランスがイギリスとスペインと共にメキシコに干渉しました。メキシコを君主制国家にするためです。アメリカからすればこの行動は明確なモンロー主義違反。南北戦争が終了すると直ちにアメリカはフランスに対して撤兵を要求、フランスもまたメキシコ国内でのゲリラ戦に苦しんでいたこともあり、メキシコから手を引かざるを得ませんでした。

対ヨーロッパ政策:移民受け入れ

ではヨーロッパとの関係はどうだったのでしょうか。外交関係が緊密でないなかでアメリカとヨーロッパの関係を結んでいたのが移民でした。

当時のアメリカは慢性的な労働力不足。移民は労働力として非常に重要な存在でした。政治的にも移民は重要は意味を持っていました。アメリカは世界に共和制を広げる意思を持っていましたが、強制的に世界各国を共和制にしようとは考えていませんでした。そのため直接ヨーロッパに乗り出すのではなく、移民を通じて共和政の素晴らしさを発信しようとしました。

旧世界の爪弾き物である移民を受け入れ、その旧世界よりも素晴らしい政治・社会制度を作ろうとしたのがアメリカ共和制ということができるでしょう。

しかし現実にはやってくる移民に対しての差別が存在しました。特にアジア系に対する差別は凄まじいものがありました。1790年には帰化法、1882年には中国人排除法が制定されました。連邦レベルでは移民制限は行われなかったものの実際の移民業務を担当する州は問題のある者を容赦なく強制送還しました。

列強への仲間入り(19世紀末〜)

19世紀に入ると国内のフロンティアが完全に消滅し、いかに国力・権益を拡大させるかが課題になりました。国外に拡張せざるを得ないため海軍力の拡大を行います。しかし対外膨張によりアメリカは共和国ではなく帝国になってしまうのではないかとの懸念がなされました。

このディレンマが表出したのが1898年の米西戦争でした。一瞬でスペインに勝利したアメリカはスペインから植民地としてプエルトリコとフィリピンをなし崩し的に獲得してしまいます。これ以降、アメリカの対外拡大が本格化しました。

アメリカが植民地を持つことに関してはこれ以降も引き続き議論され、ラテンアメリカの中では必要に応じて庇護下に置くことはいいもののアメリカの権益が前面に出過ぎることは否定されました。

門戸開放宣言(1899年〜1900年)と対アジア政策

この頃になるとアジアもアメリカの対外進出の重要な地域となりました。アメリカのアジア進出でもやはり前述の帝国主義に陥る可能性が議論されたため、門戸開放通牒を発表します。

すでにアメリカは他の西洋列強に対してアジア進出に乗り遅れていたために、他の列強に対してアジアへの進出をより抑制的にするような内容の門戸開放通牒を発表したことになります。アメリカは他の西洋諸国を引き止めることしかできなかったのです。

20世紀に入ってからの移民政策について軽く触れ、この記事を終わりにします。移民に関しては受け入れる姿勢を見せつつも、中国からの移民は前面的に否定しました。1917年には日本人以外のアジア人移民が制限されました。1924年には国別に移民数の割り当てがなされ、しかも帰化不能外国人の移民が禁止されました。この国別割り当ては1965年まで続いたとされます。

初代・ワシントンからのアメリカ外交は根本は変化することなく。状況に応じてその方針を変えてきたと言っていいでしょう。