アメリカ社会の闇?人種構成の起源に迫る!

アメリカ社会の闇?人種構成の起源に迫る!

19世紀はアメリカ社会を構成する人種が非常に多様化した時代でした。人種構成の変化はアメリカ社会に大きな問題をもたらしたことは言うまでもありません。

なぜアメリカ社会が変わったのか?どのように変わっていったのか?を見れば、アメリカ社会に横たわる根深い人種問題の根源が見えてきます。

人口流入と民族的多様性

移民の流入…2つの波

19世紀のアメリカは人口がとてつもないスピードで増加した時代でした。30年で2倍のスピードで人口へと激増します。

激増した人口の内訳は白人8割、黒人2割弱。増加した白人は多くがアメリカ大陸への移民によるものでした。アメリカ大陸外からの流入はトータルで3,300万人程度とされています。

19世紀の移民は旧移民と新移民の二つに分類されます。19世紀半ばの移民は旧移民と呼ばれ、その多くが西洋出身者でした。

その中でも当時大飢饉に襲われたアイルランドからは経済的な自由を求めて多くの人がアメリカにやってきました。アイルランド出身者は宗教的にはカトリックで社会階層では下位に押しやられました。

またドイツ系もアメリカに魅力に引きつけられた人や1848年の革命に失敗した活動家などが大挙してアメリカに亡命してきました。

19世紀の終わりには東・南欧から移民が多く押し寄せました。彼らは新移民と呼ばれ、アメリカの豊かさに憧れた人々です。なお当時の「移民」は出稼ぎの人も多かったため、永住する人ばかりではありませんでした。

移民は単身ではなく家族でアメリカに移り住む人が非常に多く、これ以降、移民がアメリカ社会の主流を作り出すようになります。

アメリカ的生活様式の形成

アメリカでは移民たちが流入するにつれ、WASPと呼ばれる生活様式が社会の主流となります。WASPとは白人、アングロサクソン系であり、ピューリタン(新教徒)である生活様式です。

この主流社会の生活様式に他の人たちが順応することが求められました。その順応する過程で重要なのが宗教の壁でした。宗教の壁を生活の中で感じるのが飲酒するかどうかです。

宗教的に酒は飲まない非主流派が飲酒する主流派に合わせるかどうかが焦点となりました。飲酒しないカトリックの代表格はアイルランド系移民です。アイルランド系は警察官や消防士が多く、港湾都市や大都市で大きな影響力を持ちました。アイルランド系は文化的には順応に苦労するものの英語ができたため、その壁は比較的低いものとなりました。言語面では新移民が苦労を強いられました。

黒人もまた奴隷としてアメリカ社会に流入しました。黒人の居住地域は南部に集中し、南北戦争前の南部州では人口の半分を超える州もありました。

19世紀半ばには中国系の人々がゴールドラッシュの労働者としてアメリカに流入してきます。アイルランド系は中国系を忌み嫌い、中国人排斥運動が発生しました。1882年には中国人排斥法が制定されます。これがアメリカで初めての人種差別法案でした。

人種的ヒエラルキーの形成と差別の構造

アメリカでは人種に基づく階層社会が作られました。イギリス出身者やオランダ系、北欧系を頂点として、最底辺には黒人が位置する人種ヒエラルキーが作られました。なお黒人の少し上に中国人が位置しました。

主流社会を形成する白人の間にも階層があり、イギリスや北欧系から見てアイルランド系やスラブ系は「本物」の白人から一段下がった別の人種と認識されていました。

20世紀後半になりケネディが初めてのカトリックの大統領なるまでカトリックの地位はアメリカ社会の中で低いままでした。カトリックは政治的にローマ法王を忠誠に誓うため、ローマ法王の言いなりになるのではないかとの批判がプロテスタントからの提起されていたからです。

面白いのはヒエラルキーの頂点にいるWASPだけがその生活様式を内面化していたわけではない点です。差別されていた人間もまたこの階層を所与のものとして内面化していました。

つまり黒人がアイルランド系をみてWASPより下だと差別していたことになります。そのアイルランド系も黒人よりは下ではないことを意識するなど人種間の複雑な目線のやりとりが存在していました。アイルランド 系は黒人とは違うということを意識するがあまりWASPよりも一層黒人を差別したのは皮肉ですね。

人種や民族は客観的に一義的に決まるものではありません。アメリカ社会を見ていると人種は社会的に構築されたものであることがよくわかります。「生物学的な違い」に見える白人と黒人の違いもまたそこに暮らす社会の成員のコンセンサスがあって初めて違いとなるのです。

人種・エスニシティの政治的意義

排外主義

アメリカの理念=自由・平等を受け入れるだけでアメリカ人となれる。これがアメリカ合衆国が理念の共和国と呼ばれる所以です。しかし、これは建前にしかすぎません。実際にはアメリカで主流をなす特定の生活様式に順応する必要がありました。

アメリカ社会に受け入れられるには英語を身に付け、アメリカ的な生活様式を身に付けなければ行けませんでした。逆に移民を受け入れるアメリカ人側は本気でアメリカ人になりたい人だけを受け入れたいとの考えがありました。

この姿勢が排外主義に発展していきました。1850年代のKnow Nothings と American Partyが排外主義を掲げる団体として大きな影響力を持つようになります。しかし、これらの団体は人種差別に基づいた排外主義を掲げていたわけではありません。

例えば、American Partyは移民がアメリカ人として帰化するまでの期間を伸ばすことを要求していました。英語力を身に付ける準備期間を長くするためです。これらの排外主義団体は断固として移民を拒絶するのではなく、アメリカ人としての能力や意思を持たない人は排除しようとしていたのです。

民族・宗教間の対立

アメリカでは民族や宗教が政治意識と強い関わりを持っています。これは19世紀から現在まで変わっていません。これが政党に一体感をもたらす要因となっています。

結果的に地域ごとに異なる民族や風習が地域の政策にも影響を及ぼすようになり、しばしば対立のタネとなりました。よく争われた争点は禁酒、宗教学校への公的助成などです。どれも宗教や文化に密接に関わる論点です。

黒人の地位と奴隷制をめぐって

南部における奴隷制

最後にアメリカの人種問題の象徴・黒人とそれに伴う奴隷制について紹介していきましょう。

南部で発展したプランテーションは黒人奴隷を労働力として用いることで成立していました。綿花の収穫時期になると畑に奴隷がずらっと並ぶ光景は南部の象徴でした。

黒人にとって奴隷制は過酷な制度であることは間違いありません。しかし重要なのは奴隷は労働力でありながら、奴隷主の財産でもあったことです。

財産である以上、奴隷を働かせ過ぎれば財産としての価値が下がってしまいます。奴隷主にとって奴隷はそれなりに働かせつつ、数を増やすことが重要でした。奴隷は統制のため教育の機会が与えられず、文盲ばかり。一方でキリスト教を奨励し、奴隷を懐柔する理屈として利用されました。

争点としての奴隷制

19世紀を通じて奴隷制が社会経済的伝統となり、労働力として重要だった南部に比べ、北部の白人は黒人や奴隷について無知でした。結果的に北部では奴隷制には反対するものの黒人への差別は残る奇妙な構造が出来上がります。

その構造を示すように奴隷州に近い北部の州では奴隷制崩壊による社会的な混乱を避けたいとの思いから奴隷解放に反対する人も多くいました。北部と南部を問わず奴隷からの復讐に怯える白人は多く、その恐怖が奴隷制廃止運動につながっていきます。

1816年からアメリカ植民教会がアフリカのリベリア(1847年独立)への植民活動を開始しました。植民教会はリベリアを開拓し、多くの解放奴隷を送り込みました。北部は奴隷制に反対していた一方、黒人に対する差別意識が非常に強く、解放された黒人とは一緒にうまくやっていけないので別々に暮らすしかないと考えていたからです。リベリアに入植するのは非常にコストがかかるため、リベリアに送られた解放奴隷たちは現地で特権階級を形成しました。

アメリカ国内には奴隷制即時廃止運動も組織されました。1833年に組織されたアメリカ反奴隷制教会は南部から北部に通じる「地下鉄道」を作成したり、連邦議会に直接奴隷制廃止の嘆願書を送りつけたりと激しい活動を行いました。

これに対して北部は南部からの書物に対しての検閲などで対抗し、奴隷制をめぐる北部と南部の対立は非常に激しいものとなりました。

まとめ

19世紀のアメリカは人種構成が非常に流動的な時期でした。移民が多く流入し、市民社会を構成する一方で、黒人をめぐる対立が南北で激しくなります。

この人種的な対立がのちのアメリカ全土を巻き込む大戦争・南北戦争に向かっていく原因となるのです。