本物の自由とは?奴隷解放でアメリカ社会はどうなったのか?

本物の自由とは?奴隷解放でアメリカ社会はどうなったのか?

この記事ではアメリカの奴隷解放について詳しく解説していきます。南北戦争開戦の重要な要因が奴隷制度をめぐる南北の対立でした。北

北部が南北戦争に勝利することで奴隷制は廃止されました。しかし奴隷制が廃止されてもすぐに解放奴隷の人々の生活に安寧がもたらされたわけではありませんでした。

では実際には奴隷制がどのように使われ、解放奴隷の人たちはどのような生活を送ったのか。それによってアメリカ社会はどうなったのか。今回は奴隷解放後のアメリカ社会を詳しく掘り下げます。

奴隷解放への道

奴隷解放への道を切り開いたのは南北戦争でした。南北戦争以前、奴隷制は社会構造の一部として南部に定着していました。この奴隷制から敷衍して生じる経済的側面や道徳的側面をめぐって南北戦争は発生したと考えられています。

南北戦争序盤は南部が優位となりますが、次第に北部が実力を発揮し始めました。北部は南北戦争を戦うにあたり、奴隷制度を根本的に潰そうとは考えていませんでした。奴隷州でありながら連邦政府に留まった州に配慮していたからです。

しかし、北部指導者・リンカーンの意向が働くようになると北部は奴隷制に対して強い態度を示すようになります。リンカーンは南北戦争を徹底的に戦うことを決意。結果的にこのリンカーンの態度が南部の奴隷解放に重要な要因になりました。

まず1862年9月に奴隷解放予備宣言を発表しました。これにより年末までに南部連合が休戦し連邦政府に復帰しないのであれば、北部は南部の奴隷制を廃止させることを明言します。続いて、1863年1月に奴隷解放宣言を発表しました。南部連合が実行的な支配を及ぼす地域での奴隷制廃止を訴えました。

北部の奴隷制廃止の主張によって南部は社会的に混乱した上にヨーロッパも奴隷制に賛成する南部を公には支援しづらくなりました。次第に南部を取り巻く環境が厳しさを増していきました。

このようにリンカーンは北部が戦争を優位に遂行するための手段として奴隷制を利用しました。彼が連邦軍最高司令官としての立場から奴隷制を叫ぶことで南北戦争の目的は南北対立の解消から合衆国における奴隷制廃止の実現へと変化しました。

しかし奴隷制廃止が戦争の大義になることは北部の中でも反発がありました。白人兵士が黒人の自由のために命を削ることに不満がたまったからです。その不満を示すように62年の連邦議会選挙では共和党は議席を減らしています。

その不満を加速させたのが徴兵制の導入でした。それまでは志願兵制だったところを徴兵により強制的に軍隊へ駆り出されたため多くの反発が生まれました。結果、黒人へのリンチが増加するなどの社会問題が発生します。これに対応するために奴隷解放宣言後は黒人部隊が作られました。

徐々に追い詰められた南部は解放を条件に奴隷を戦闘に参加させるなどの方策を取りました。南部はジリ貧の戦いを強いられるようになり、結果、ゲティスバーグの戦いで惨敗すると北部と講和条約を結ぶことになりました。

再建をめぐる混乱

南北戦争が終了すると新たな社会システムの構築をする必要に迫られます。南北戦争は内戦であったため、国家間戦争とは異なり、勝利した北部が敗れた南部を取り込みつつ、秩序を模索しなくてはいけない点で困難を伴うものでした。

その中で重要なのはやはり奴隷の権利をどこまで認めるのか?というもの。奴隷は数百万人の単位で存在していたため、一歩でも扱いを間違えれば大きな社会的混乱がもたらされることは必至でした。

また奴隷の扱いと連動して大切だったのが南部の反乱者をどのように扱うかという問題。過度に厳しい対応をすれば第二次南北戦争が起こってもおかしくありません。北部は非常にデリケートに南部を扱う必要があったのです。

奴隷制が廃止されると奴隷たちは一瞬にして「モノ」から「人」になりました。これによって南部の人口は激増します。北部はこれを好ましく思っていませんでした。なぜなら人口比で各州に配分される大統領選挙人が奴隷制廃止によって南部に偏って配分されてしまうからです。

当時のアメリカ大統領は暗殺されたリンカーンの後任・ジョンソンでした。ジョンソンは連邦がまとまることが大切であると考え、南部の取り込みに心血を注ぎます。大統領が権限を持っていた南北戦争から引き続いて戦後処理も大統領による専権事項であるとのスタンスをとり、復旧作業に邁進しました。これに対して議会は反発。ジョンソンは議会を招聘することなく独自の再建案を模索します。

ジョンソンは自分の政策が「復旧」活動であるとして、奴隷制度以外の部分で社会を南北戦争前に戻そうとしました。州の持つ権利を重視しつつ、南部11州の連邦復帰を急ぎます。しかし、その際には元奴隷の人たちの権利が全く保証されませんでした。

ジョンソンの暴走気味な政権運営に対抗して議会と共和党も再建作業を始めました。

南部出身のジョンソンは南部に何かと甘く、ジョンソン政権時代の連邦議会には南北戦争時代に南部で活動した政治家が多く含まれていました。

全く戦争の成果が得られていないため、共和党議会はジョンソンや南部、民主党の反対を乗り越えて議会からの「再建」を続けるようになりました。

議会では1866年には市民的権利法、憲法第14条修正発議、1867年には再建法、1868年には第15条修正発議を発布します。

市民的権利法では市民の一員として認められる権利が定められました。再建法では合衆国政府がどのような権利持っているのかが確認されました。

合衆国憲法の修正も行われました。第14修正発議では合衆国の市民として認められる権利を記載し、連邦政府の役割を拡大させました。

1867年の再建法では非常に大胆な政策が実現されました。南部連合に参加した南部州を軍政の支配下で再建をやり直すことが目指されたのです。これにより南部は自らの手で改革を進めることが認められました。連邦政府から南部に課された条件を飲むことで連邦政府に南部が復帰することが認められていました。

南部は21歳以上に普通選挙権を実現させ、黒人に対しての参政権も認めました。共和党は南部に一定の裁量を与えなければ南部の再建はうまくいかないと考えていました。南部の白人は共和党が行うことに対してすべて反対するに決まっているからです。

南部で黒人に対して参政権を与えることは北部の白人からすると考えられないことです。北部で実現しない黒人選挙権を実現することで北部でも黒人参政権を付与しなければならないと考えられるようになりました。これは北部の白人からすれば恐怖です。

結果、共和党は南部の白人と南部の白人との間で政策を急進化せざるを得ませんでした。しかしこれは裏目に出て共和党は議席を失っていきます。

しかし民主党もピリッとしません。まず1868年にはジョンソンが弾劾裁判にかけられます。(弾劾は回避)1870年代初頭には南部州が連邦への復帰を果たしますが、南部連合の指導者の権威や権力はすでに失墜していました。

これを見た北部は南部に失望し、やはり黒人を抱えていての統治は難しいと悟ります。結果的に南部の白人が統治することを消極的に認めることにはなるものの南北のしこりは残り続けることになりました。

奴隷制廃止によって解放された奴隷は元奴隷主のところでシェアクロッパーとして土地を借り、小作農として活動するようになりました。

奴隷制があった頃、奴隷主にとって奴隷は財産でした。しかしシェアクロッパーとなった今、財産ではなくなります。自分の財産だからこそある程度奴隷を丁重に扱うインセンティブがあったのにもかかわらず、解放されたことでより厳しい扱いをされてしまいました。

しかし、奴隷解放によって解放奴隷は家族を持つことができるようになりました。引き裂かれた家族が再開できるようになり、元奴隷の中で社会が作られるようになります。解放奴隷たちのコミュニティの舞台になったのが教会でした。黒人であっても牧師は教育を受けているため黒人の指導者としての役割を果たすことができました。のちの時代、公民権運動の旗振り役となったのもキング「牧師」でした。

再建の終わり

長らく続いた再建活動も時間の経過とともに収束へ向かいます。解放奴隷の地位に関しては権利を与えたはものの、実質化される政策は取られることはなく、黒人の中に不満を残します。これがのちの公民権運動につながっていきました。

南北の白人も1870年代になると戦後処理への関心が低下したため再建に関する政治的対立が落ち着いていきました。1876年選挙が再建の終了の契機となる選挙でした。共和党のラザフォードを勝利させる代わりに共和党は南部から連邦軍を撤退させる妥協が成立したからです。ここから約1世紀にわたり南部は民主党による1党支配が実現することになりました。

まとめ:南北戦争・再建の歴史的意義

南北戦争はアメリカ社会に深刻な後遺症を残しました。特に奴隷制は南北戦争の目的であったにもかかわらず、戦争後は実質的な権利が認められず、社会的に放置されてしまったからです。放置されるばかりではなくジム=クロウ制度と呼ばれる人種隔離政策が実行される始末。これも奴隷が社会の中に放り出されてしまったからです。

南北戦争を通じて連邦の優位がはっきりしたことも重要です。この結果、州が容易に連邦を抜けることが許されず、実質的に不可能になりました。この結果、アメリカは国家としての体をなすようになりました。