【中国近現代史】変法運動の基礎の基礎から解説!

【中国近現代史】変法運動の基礎の基礎から解説!

この記事では19世期後半の中国で行われた変法運動について詳しく解説していきます。日清戦争で敗れた清は自分たちが世界から取り残されていることを実感し、抜本的な改革に乗り出します。その改革が変法運動です。

この変法運動では何が目指されたのか。結果はどうだったのかについて学べば、日清戦争がもたらしたインパクトがわかるはず!

背景ー日清戦争敗北の衝撃

日清戦争で敗れたことは清朝の官僚、知識人にとって非常に屈辱的でした。清朝にとって日本は中国に従属してきたとるに足りないアジアの小国。

その日本に木っ端微塵にやられたことで中国のエリートはようやく自分たちの立ち位置を理解します。この危機感をバネにして、より徹底的な改革を行おうとします。95年から98年にかけて改革を唱える新聞や学会が大量に現れ、世論も改革を後押ししました。

急進改革派の台頭

代表者ー康有為

改革を行おうとする風潮の中で急進的な改革派が現れました。その代表が康有為です。

彼は科挙に合格した読書人(士大夫)。日本の明治維新に習った政治体制の抜本的な改革と富国強兵による国造りの必要性を訴え、意見書を皇帝に提出していました。

「急進改革派」の意味ー穏健派、革命派との区別

康有為が属す「急進改革派」は同治中興のころに比べるとはるかにラディカルな姿勢を見せていました。しかし、彼はあくまで改革派。革命派ではありません。

古い王朝体制をひっくり返すのではなく、温存しながら新しい状況に王朝を適用させようとしていたのです。これはペレストロイカを唱えていた頃のゴルバチョフに似ています。ゴルバチョフは従来の社会主義システムを残したまま、古いシステムを改革しようとしました。

ゴルバチョフはそのためにレーニンを再評価します。古き良きレーニン時代の共産党を復活させることを狙いました。そのため、ゴルバチョフが言う改革は社会主義そのものを解体するのではなく、レーニンの時代を蘇らせることが目的でした。それと同様に康有為は孔子を再評価することで自分の改革を下支えしようとしました。

儒教の大胆な再評価ー『孔子改制考』

『孔子改制考』で康有為は大胆な儒教の読みかえを行います。この本で重要なのは儒教には変化に対して柔軟であるべきとする教えがあると主張している点です。

さらに儒教の精神を守りながら、変化する状況に巧みに儒教を適用させるべきとも主張します。変化させてこそ本来の精神を発揮するようになるとの考えです。これはかなり無理のある解釈です。

どうしてこのような奇妙にも見える解釈を行ったのでしょうか。一つの説は康有為は自分ではすでに儒教に見切りをつけていたけれども改革に反対する人の支援を得ようと儒教を再解釈しようとした説です。改革反対派の人たちも儒教の精神にのっとれば、自分に協力してくれるかもしれない政治的計算をしていたかもしれません。

その一方で康有為は儒教的改革精神は温存されなければならないと本気で考えていたとする説もあります。康有為は日本に亡命した後も儒教を国教にすべきと主張していたからです。

ともあれ、康有為は斬新で急進的な改革を提言しつつも、それが古い秩序を壊すものではないと予防線を張っていました。

当時の若き皇帝・光緒帝も康有為に大きな期待を寄せ、康有為は皇帝に何度も意見書を提出していました。康有為による5番目の意見書が光緒帝の目に留まり、より具体的な計画を出すように指示を出しました。これにより変法運動が本格的に始まっていきます。

「上から」の改革のプログラム

光緒帝からの命を受け、康有為はより具体的な政策提言を作成します。その中で康有為は

変法を行うにしても過ちを行うのが心配なら、日本に習えばよい。古い習俗は我が国と同じようだったのだから体制刷新のやり方は日本に習うしかない

として、日本を参考にした改革を目指します。

明治維新がうまくいったのは明治天皇のイニシアチブがあったからとして、変法運動でも皇帝自らが改革のイニシアチブをとることが目指されました。

下意上達の制度を取り入れ、科挙とは異なる人材登用制度の導入が検討されました。光緒帝はこうした意見に大いに賛成し、中国古代ではなく明治天皇やピョートル大帝などの改革精神に富んだ人間を参考にするべきと考えました。

戊戌の変法(百日維新)

当時弱冠23歳だった光緒帝は変法を国是とする詔書を発表します。光緒帝の詔勅が出ると康有為梁啓超譚嗣同(たんしどう)が改革のアドバイザーとして次々と新しい法案や制度を提出していきます。

「上からの改革」の始動とその内容

  • 科挙改革
  • 西洋科学を学ぶための近代的学校の設置
  • 陸海軍の近代化
  • 警察の近代化
  • 郵便制度の近代化
  • 官僚機構における余剰人員の大胆な整理
  • 法律の抜本的な見直し
  • 農業商業工業の振興

などが改革の内容としてあげられました。

これらの改革は個別的にみると、折に触れて必要性が叫ばれてきたものばかり。しかし、今回の戊戌の変法の試みは改革を目指す範囲が非常に広く、これまでの改革の試みをはるかに凌駕していました。

この改革は中国の従来のシステムに対する全面的な攻撃の始まりでした。しかも、その改革が権力機構のトップから始まる点で画期的です。

しかし、実際には改革は遅々として始まりませんでした。その中でも改革派が多い湖南省だけで改革が進みます。湖南省は太平天国の乱を迎え撃った曾国藩の出身地でもあるなど、多くの改革派や革命家を生み出した風土があったからと考えられています。ちなみに毛沢東もここの出身なんですよ。

改革に対する抵抗

湖南省以外では皇帝の命令は無視され、頑強な抵抗にあいました。特に科挙官僚は科挙改革によって自分たちの権威が失われることを非常に嫌がりました。

当時、科挙官僚は圧倒的な権力と権威を持っていました。その権威と権力は中国の古典に対する優れた知識を持っていることから生まれていました。

改革が進むことで科挙官僚は西洋学を学んだ人間に見下されるのではと猜疑心に苛まれました。しかも、当時の最高権力者・西太后は改革に同意していたかどうかは非常に疑わしく、多くの官僚が光緒帝の改革の側に付くことは損な選択肢だと考えました。

一方の改革派も政治的経験が不足していたことは否めません。目的を達成するための効果的な政治戦略も持ち得ていませんでした。

弱冠23歳の光緒帝を頂点に康有為は40歳、梁啓超は25歳、譚嗣同は32歳に過ぎず、改革に反対するベテラン官僚たちの手により変法運動は潰されていきました。

保守派のクーデターによる改革の挫折

時の権力者・西太后は改革に反対し、1891年9月21日に光緒帝を幽閉してしまいます。幽閉に加え、譚嗣同をはじめとする改革派官僚6名を処刑しました。康有為と梁啓超はかろうじて日本に亡命していたので助かりました。

この背景には光緒帝が西太后を今後政治に関わらせないようにする方針を発表しようとしていたことが西太后側にバレてしまったからだと考えられています。

西太后のクーデターの背景には日本人が関連しているとの説もあります。その日本人とは伊藤博文。改革派は伊藤博文を改革の顧問にとして招聘しようとしていたからです。改革派は伊藤博文を皮切りにより多くの外国人を招聘しようとしていました。

この動きに西太后は激怒し、改革派を潰そうとしたのではないかとされています。ともあれ、西太后からの反発ですべての改革は行き詰まり、わずか3ヶ月で変法運動は終わってしまいました。

そのために戊戌の変法の別名を百日維新(英語名:The Hundreds Days of 1898)とも言います。

康有為の夢は立憲君主制を設立することでしたが、実際には叶いませんでした。そのストレスがたまったのか康有為は箱根によく逃亡していました。康有為は辛亥革命が起こった後、中国に帰還しますが、すでに立憲君主制は下火になっていました。

西太后(慈禧太后、Empress Dowager Cixi)のプロフィール

ここではたびたび登場する西太后について物語風にご紹介します。

西太后おばさん

西太后は1835年にとある地方長官の家に生まれました。才色兼備で歌もうまい少女でした。18歳の時に当時の皇帝・咸豊帝の後宮に入ります。

西太后はその美貌ゆえに仲間たちから妬まれ、木陰で歌を歌って過ごしていました。これは彼女なりの計算で、当時の皇帝・咸豊帝が歌が好きなことを知っていたが故の行動とされています。

ある日、咸豊帝は偶然西太后の歌を聞いてから彼女を溺愛するようになります。のちに咸豊帝と西太后の間には子どもが産まれました。それが後の同治帝です。咸豊帝は早逝し、同治帝が皇帝になりました。

同治帝はまだ幼かったために、咸豊帝の側室・西太后と正室・東太后が実権を握ります。西太后は当初、東太后に頭が上がりません。咸豊帝の遺書に

もし西太后が同治帝の母であることを盾に権力を振るうなら厳しく処罰してよい

と書いてあったからです。しかし、二人の関係が一転する事件がおきます。

ある時、東太后は病におかされます。医者に勧められた薬を飲んでもまったくよくなりません。しかし、西太后が進めたスープを飲むと東太后は回復しました。

この件から2人の権力は逆転。次第に西太后が暴力的までに権力を振るうようになります。

幼い同治帝は東太后に懐いたために、西太后は激おこプンプン丸。同治帝と正室を引き剥がす酷い仕打ちを与えます。

結果、同治帝は西太后から冷遇され、病気になっても治療は受けられず、食事も取らせてもらえませんでした。

結局、同治帝は1875年で二十歳を迎えることもなく世を去ります。彼の正室も後を追うように死んでしまいます。西太后は甥である4歳の少年を皇帝に仕立て上げる。これが光緒帝です。彼の即位にあたって東太后は最後の邪魔者でした。

そこで西太后は実家から届けられた餅を東太后に送ります。1回目は普通においしい餅。2回目は毒入りの餅を届けます。安心させたところでとどめを刺す不妨な戦略です。

即位した光緒帝も西太后に酷い目に合わされます。西太后の1日2回の食事には100品もの品々が並べられた一方で光緒帝に並べられるものは到底、口に入れられるものではありませんでした。

光緒帝が不満を言っても、西太后は「皇帝たるもの率先して、倹約の模範とならねばならん。食事について文句言うな」とつっぱねる始末。

光緒帝は変法が失敗に終わるともはや囚人同様の生活となります。西太后に殴られ、皇帝が血だらけにあっても手当ひとつしてくれませんでした。彼を救護した者は翌日に殴り殺されたとのエピソードもあります。

光緒帝の唯一の慰めは愛人・珍妃でした。彼女は戊戌の政変が起きた際にも光緒帝を庇い続けました。しかし、結局は彼女も井戸に投げ込まれ、殺害されてしまいます。

最大のミステリーは光緒帝が西太后が死ぬわずか一日前に死亡したことです。これは仕組まれたものと考えられています。

2003年の調査プロジェクトで光緒帝の死因が急性ヒ素中毒であったことがわかりました。そのため光緒帝は他殺されたと考えられています。

西太后にとっては西洋列強も国内反乱もさしたる重要な事案ではありませんでした。当時の中国を取り巻く環境を考えると西太后がトップにいたことは悲劇でした。

帰結

保守派の勝利と西洋列強との関係の悪化

改革派は保守派のクーデターの後に、すっかり力を失い、保守派が力を増すようになりました。しかし、改革に大きな期待を寄せていた西洋列強は保守派の復権に大きく失望し、保守派への圧力を強めました。

一方、西太后側の中にも西洋への反感が広がっていました。対立する両者。西洋列強は西太后側の試みを失敗させようと工作をしたことがわかっています。西太后と西洋列強の対立関係は義和団事件の際に大きな影響を及ぼしますが、それはまた今度。

失敗を運命づけられていた改革派?

改革派の試みは失敗を運命付けられていたのかもしれません。改革派は下からの民主運動には強い警戒感をもち、大衆を味方につけようとしなかったからです。

下意上達の方針も知識人や官僚のレベルに限定した話で大衆に話を聞く様子は見られませんでした。

改革派は自ら孤立する道を選んでしまったために、いとも簡単に保守派に叩き潰されてしまったのです。民衆との接点を持つ改革派が生まれるのは康有為よりも一世代後。中国共産党の時代まで待たなければなりませんでした。中国とはエリートとは異なる大衆を味方につけて政治体制をつくるアイデアが出てくるには実に長い時間がかかったのです。