呉に行ったら、戦艦大和がまだ生きていた!!

呉に行ったら、戦艦大和がまだ生きていた!!

港町・呉

広島旅行2日目の午前中。呉に参りました。

大和…にしては小さい

港町の運命なのでしょうか。呉駅を降りて目に入る建物の多くには錆が目立ちます。潮風に晒されてるせいなのでしょう。錆の色はどどめ色といったところ。どどめ色が目立つ街並みの中で、純白の制服を身にまとった若人たちが威風堂々たる歩きようです。

彼らは一体何者なのか。その答えは後々発表するとして、まずは呉という都市が辿った歴史をざっくりとふりかえってみましょう。

呉の歴史

呉は明治時代までは瀬戸内海の小さな漁村にすぎませんでした。しかし、明治政府の国策の中で、呉は「軍港」としての役割を担うことになります。呉は天然の良港で、軍港にするにはぴったりだったのです。

こうして、呉と軍の関係は始まっていきました。

呉は軍艦工場としてその名を馳せることになります。大日本帝国が国際社会へ名乗りをあげるきっかけとなる日清、日露戦争での勝利には呉が大きな役割を果たしたのです。

東洋一の軍艦工場として名を轟かせていた呉。その結果、全国から優秀な技術者や政府関係者が集まり、呉は空前の繁栄を遂げることになります。

第一次世界大戦終了後、再び大戦の影が差してきた1940年。呉ではとある国家プロジェクトが極秘裏に進行していました。それが「大和」の建造です。

皆さんも一度くらいは聞いたことのある「大和」の名前。

当時、世界最大・最強の軍艦として「大和」は建造されたのです。

しかし、第2次世界大戦で戦艦「大和」はその使命を十分に果たすことなく、海の底へ沈んでいきました。

はい、ここまでが僕が「大和ミュージアム」で学んだことです。記憶を掘り起こして、なんとかかけました。

歴史を受けて

軍港として発展していた「呉」

その繁栄はまさしく近代国家への歩みを進める大日本帝国や大日本帝国海軍の姿に重なります。

しかし、日本は第一次世界大戦後、国益の確保が難しくなっていきます。結果的に太平洋戦争へと向かって行くことになりました。その過程の中で作られたのが戦艦「大和」なのです。

世界最大・最強の戦艦「大和」が作られたのにも関わらず、そこにある種の「高揚感」というものが感じられない。大和ミュージアムを見学しながら、そう思ったのです。

というもの、建設されながら、「大和」は自らの運命を悟っていたのかもしれません。

最大・最強の軍艦を作らないといけないような当時の日本の状況。太平洋戦争に突入しながらも、その未来は明るくないだろうという閉塞感。

その悲壮感を「大和」は背負っていたのでしょう。その重荷を背負った「大和」にとって、太平洋戦争末期の出航はあまりに荷が重いものでした。

出航し、沈没した戦艦大和。その「大和」は遠い海の底から呉、そして日本を見上げています。

最初の問題

純白の制服に身を包んだ若人は一体誰なのか?

彼らは「海上自衛隊 呉教育隊」の生徒たち。将来は自衛隊の一員として活躍するべく、日々鍛錬をしている益荒男たちです。

呉を象徴する「大和」が今尚、影を落としているからこそ、呉には今もその匂いが残っています。すなわち、軍港・呉の姿は今もなお、ありありと感じるのです。

呉の海を見れば、自衛隊の艦船が浮かんでいます。巨大な船舶の建設まで。

これが悪しき軍国主義の名残だと捉える人もいるのでしょう。呉の海をみて、瀬戸内海の美しさ以外に感じるものは多いはずです。

かといって、「呉教育隊」に代表されるように、日本という国家の根幹を関わる役割を呉が戦後も持ち続けていることもまた事実です。

「大和」が象徴する軍港・呉は今の呉にも根付いています。

大和の存在感

「大和」の存在感は何も呉だけにとどまるということはありません。

「大和」は旧日本海軍の技術の粋が結集されたことは事実です。その技術は戦後日本の復興に大きな役割を果たしました。

造船の技術しかり、鉄鋼の技術しかり。

「大和」が日本経済の発展に大きく貢献したことは事実なのです。知らず知らずのうちに、大和は海の底から私たちと関わっています。死してなお、「大和」はその果たしきれなかった使命を全うしているのかもしれません。

経済大国となったこの国には、大和の影が落ちています。

しかし、未曾有の戦争の中で、国家の負の側面を背負って沈没していった戦艦が、その後の日本の発展に寄与したことは、なんとも皮肉めいたものを感じてしまうのでした。

 

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