第二次世界大戦の流れをザクっと解説!

第二次世界大戦の流れをザクっと解説!

この記事では第二次世界大戦の展開についてサクッとまとめています。

戦争の勃発

独ソ不可侵条約

1939年8月23日。ドイツとソ連は不可侵条約を結びました。思想的に相容れない両者が不可侵条約を結んだこと世界を大いに驚かせました。

驚きの条約が結ばれた背景にはドイツとソ連の利害が奇妙な一致がありました。

ドイツは大戦を戦う上で東部と西部の二正面作戦を戦うのではなく、ソ連と戦争を回避しておくことで英仏との戦争に集中したいとの思惑がありました。

ソ連も1939年に5月から8月に日本とノモンハン戦争を戦い、主力部隊に大きな損害が出ていました。今ドイツに攻め込まれればで対抗することはできないとの判断がありました。スターリンには時間が必要でした。

ソ連とドイツの利害が奇妙に一致した独ソ不可侵条約によりドイツには英仏との戦争に集中できる環境が整いました。

ドイツ軍のポーランド侵攻

1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへの侵攻を開始します。一方でソ連も独ソ不可侵条約に基づいてポーランドに侵攻します。10月5日にポーランドは降伏。ポーランドはドイツとソ連により分割されてしまいました。ヒトラーはまず英仏との全面戦争を回避し、東部戦線に集中しました。

これに対して9月3日には英仏両国がドイツに対して宣戦布告を行い、第二次世界大戦が始まりました。

アメリカとソ連 〜1939年秋

ソ連はポーランドに続いてフィンランドに侵攻しました。国際連盟はこのソ連の行為を侵略行為として認定。ソ連を国際連盟から除名しました。すなわちソ連は第二次世界大戦当初はドイツ側の同盟国として参加したことになります。当時のソ連では国益を考えるとドイツと組む方がよいと考えられていました。

一方のアメリカは1939年9月5日に戦争への中立を宣言し事態を見守ります。

アメリカとソ連のように国際社会はヒトラーの侵略行動に対して結束して対応することができませんでした。

「奇妙な戦争」からフランス侵攻へ

1939年9月から1940年5月まではドイツと英仏両国の間で戦争状態にありながら本格的な戦闘が行われることはありませんでした。そのためこの時期を「奇妙な戦争」と呼びます。

この小康状態を打ち破ったのがヒトラーでした。1940年5月10日にベルギーとオランダへの侵攻を開始します。ベルギーとオランダは中立国。あっという間にナチス・ドイツに侵略されていきました。

戦前、イギリスとフランスは両国に対し軍隊の駐留を要求していました。しかし、両国は拒否していました。英仏軍を駐留させることでドイツ軍から不信感を買うことが怖かったからです。ベルギーとオランダは中立であれば戦争に巻き込まれないと期待していましたが、あっさりと裏切られました。

5月14日にオランダが降伏。5月27日にはベルギーが降伏しました。ドイツの優位をみたムッソリーニのイタリアも6月10日にドイツ側に立って参戦しました。

フランスは陸側からはドイツ、地中海側からはイタリア軍の攻撃を受け、総崩れ状態に。6月27日はドイツがあっさりとパリを占領します。ドイツは7月10日にフランスに同盟国であるヴィシー政権を成立させました。

このような中で日本政府はドイツの勝利を確信し、1940年9月27日、日独伊三国同盟を締結しました。ナチス・ドイツの同盟国となったことで日本はアメリカやイギリスに対してイデオロギー的に敵となりました。のちに当時の松岡洋右外相はこれを振り返り

三国同盟の締結は僕一生の不覚だった

と述べていました。ヒトラーの味方になることはアメリカとイギリスを敵に回すことと同義。日本はそのことの恐ろしさに気付いていませんでした。

フランスがドイツに征服されるとイギリスは孤立状態に陥りました。極東では日本、地中海ではイタリア、ヨーロッパ大陸ではドイツを相手にしなければならななかったからです。

孤立する中で強大な枢軸国に対抗するのは非常な困難をもたらしました。このタイミングでイギリスの首相になったのがチャーチルでした。

チャーチルは国内で失脚した政治家でしたがヒトラーに対して一貫して反発していた姿勢を見出され、戦時の首相となりました。このチャーチルの下でイギリスは驚異の粘りを見せます。

第二次世界大戦の展開

「バルバロッサ作戦」から真珠湾攻撃へ

1940年6月にパリが陥落すると「バトル・オブ・ブリテン」が始まりました。これは世界最大の航空戦と言われ、ドイツにとってはイギリス本土上陸作戦の前哨戦と言われる戦いです。

イギリスは徹底抗戦の方針の下、本土防衛作戦が始まりました。イギリスはレーダーと情報活動によりドイツ軍の攻撃に抵抗していきます。レーダーを用いたインテリジェンス活動により、ドイツは多くの戦闘機を失いました。この対応が功を奏し、1941年5月、ヒトラーは英上陸作戦を断念します。

この失敗によってヒトラーは初めての戦争計画の変更を強いられました。ヒトラーは戦争に勝つことが国内における正統性の源泉でした。イギリスを攻略できなかったことはヒトラーが国内における不信感を広めるきっかけとなりました。

ドイツはイギリスを攻略できなかったため矛先をソ連に向けました。1941年6月22日、ドイツ軍はソ連への侵攻を開始します。これをバルバロッサ作戦と言います。ドイツはソ連との戦争を簡単に片付けることができると踏んでいました。しかしソ連の頑強な抵抗にあい、ドイツ軍は疲弊していきました。

これを受けてイギリスには勝機が訪れます。ドイツ軍の兵力が東西に分散したからです。ソ連もまたドイツへの抵抗を辛抱強く続けました。

1941年12月8日に日本軍が真珠湾を攻撃しました。戦争がアジア太平洋へと広がり、第二次世界大戦へのアメリカの参戦が確定しました。アメリカの参戦により連合国は有利になっていきます。

ウィンストンチャーチルは日本の太平洋戦争の開始の連絡を受けて

よし、勝った

と述べました。イギリスにとってアメリカの参戦が第二次世界大戦を勝利に導く最大にして最後のピースだったからです。

大同盟の成立

連合国側は勝利を確信し、早速、戦後の国際秩序の検討に入りました。1941年8月14日、カナダのニューファンドランド沖で首脳会談を行ったチャーチル首相とアメリカのローズヴェルト大統領は「大西洋憲章」を公表しました。大西洋憲章では英米両国の戦争目的と戦後構想が示されました。以下は大西洋憲章の抜粋です。

英米共同宣言(大西洋憲章)(1941年8月14日に連合王国総理大臣及びアメリカ合衆国大統領が発表した大西洋憲章として知られる原則宣言)

1941年8月 大西洋上で署名

1941年8月14日 発表

アメリカ合衆国大統領及び連合王国における皇帝陛下の政府を代表するチャーチル総理大臣は、会合を行った後、両者が、世界の一層よい将来に対するその希望の基礎とする各自の国の国政上のある種の共通原則を公にすることは正しいことであると認める。

 第一に、両者の国は、領土たるとその他たるとを問わず、いかなる拡大も求めない[=領土不拡大の原則]。

 第二に、両者は、関係国民の自由に表明する希望と一致しない領土変更の行われることを欲しない。

 第三に、両者は、すべての国民に対して、彼らがその下で生活する政体を選択する権利を尊重する。両者は、主権及び自治を強奪された者にそれらが回復されることを希望する。

 第四に、両者は、その現に存する義務に対して正当な尊重を払いつつ、大国たると小国たるとを問わず、また、戦勝国たると敗戦国たるとを問わず、すべての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商及び原料の均等な開放がなされるよう努力する。

 第五に、両者は、改善された労働条件、経済的進歩及び社会保障をすべての者に確保するため、すべての国の間の、経済的分野における完全な協力を作り出すことを希望する。

 第六に、ナチ暴政の最終的破壊の後、両者は、すべての国民に対して、各自の国境内において安全に居住することを可能とし、かつ、すべての国のすべての人類が恐怖及び欠乏から解放されて、その生命を全うすることを保証するような平和が確立されることを希望する。

 第七に、このような平和は、すべての人類が妨害を受けることなく航行を可能ならしめるものでなければならない。

 第八に、両者は、世界のすべての国民が、実際的および精神的のいずれの見地からみても、武力の使用の放棄に到達しなければならないと信ずる。陸、海および空の軍備が、自国の国境外における侵略の脅威を与えまたは与えることのある国々において引続き使用される限り、いかなる将来の平和も維持され得ないのであるから、両者は、一層広範かつ恒久的な一般的安全保障制度が確立されるまでは、このような国々の武装解除は欠くことのできないものであると信ずる。両者は、また、平和を愛好する国民のために、恐るべき軍備の負担を軽減する他のすべての実行可能な措置を援助し、かつ、助長する。

フランクリン・D・ルーズヴェルト
ウィンストン・S・チャーチル

1942年1月には「連合国宣言」がアメリカ、イギリス、ソ連、中国の4カ国により合意され、連合国は各国が単独で枢軸国と講和しないことを宣言します。

1942年6月には英ソ相互援助条約が調印され、連合国側にソ連が加わりました。イギリス、アメリカ、ソ連の三大国は「連合国」として枢軸国に対抗して大同盟を形成しました。

1943年2月にソ連のスターリングラードでドイツ軍が敗北すると連合国の優勢が明らかになります。1943年9月にはイタリアが降伏し、1944年6月にはローマが解放されました。

1944年6月には連合国軍がノルマンディー上陸作戦を実行し、8月にはパリが解放されました。連合国の戦力はアメリカの参戦により圧倒的なものとなっていました。

ヤルタからポツダムへ

戦況が連合国有利になるにつれてどんどんと戦後構想が具体的に固まっていきました。1943年11月にはテヘラン会談では初めての米英ソの首脳会談が開催され、対独戦勝後の対日戦についての戦争協力を協議しました。

1945年2月のヤルタ会談ではドイツの分割占領とポーランド問題をめぐる「ヨーロッパ解放宣言」そして対日戦勝後の密約を合意しました。

1945年7月のポツダム会談ではドイツ占領方式と戦後処理に関する外相理事会設置、および対日無条件降伏要求を合意しました。

まとめ

イギリスがチャーチル指導の下でドイツ軍に対して抵抗をしたことでドイツ軍は多くの兵力を失いました。しかも、ドイツ国内におけるヒトラーの正統性を失わせたことでドイツはその後の戦争方針がブレブレなものとなり、敗北へと突き進んでいきました。チャーチルがドイツを跳ね返したことが連合国の勝利l、ひいては1945年以降の世界秩序に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。