【前編】清朝に終止符!辛亥革命について解説!

【前編】清朝に終止符!辛亥革命について解説!

辛亥革命は1911年に発生し、秦の始皇帝以来2000年以上続いた王朝支配に終止符を打った革命です。これにより中国はアジアで初めての共和国となりました。

この革命をめぐっては様々な議論があり、その意義についても評価などが分かれています。ここでは2回に分けて、辛亥革命の起源・過程・意義について深堀っていきます。

革命の性格規定をめぐって

不完全なブルジョア(民主主義)革命?

辛亥革命は清朝を終了させ、中国をアジアで最初の共和国としました。しかし、革命それ自体についてはわからないことがいまだにたくさんあります。

辛亥革命について伝統的で有力な見解は、不完全なブルジョワ革命であるというもの。以下ではこの見解を解説します。

それによれば辛亥革命に立ち上がった人たちの目的は

  1. 帝国主義に対抗すること
  2. 国内の封建勢力を打倒すること
  3. 独立した資本主義国家を打ち立てること

でした。

しかし、民族ブルジョワジーを代表する革命家は反封建主義や反帝国主義の方針を明確には打ち出しませんでした。

しかも彼らは大衆をうまく組織化することができず革命は不完全に終わります。とは言え、辛亥革命は2000年続いた専制君主制を終わらせ、中国社会に精神的な開放をもたらしたのは事実であり、のちに中国共産党主導のブルジョワ民主主義革命への前提条件を作り出しました。

この辛亥革命=不完全なブルジョア革命論が長い間、中国と日本の学会で通用してきた有力な見解です。

そもそもブルジョア革命とは何か?

しかし、まずそもそもブルジョア革命とは何かを確認せねばなりません。ブルジョア革命の典型はフランス革命です。フランス革命では封建社会で次第に成長したブルジョワジーが封建制度と特権商人、絶対君主を打倒して政治権力を掌握したと理解されてきました。

革命の結果、古い社会構造は根底から覆されました。土地所有の仕組みや独立した自営農民層が広範に生まれます。政体としては共和制が導入され、資本主義発展のための有利な条件が作られました。

辛亥革命についてもこのフランス革命モデルが適用され、辛亥革命=不完全なブルジョワ革命とされてきました。

修正主義学派の挑戦

しかし、近年ではブルジョア革命が歴史上存在したのか疑問が呈されています。ブルジョワ革命が存在しなかったと主張する人たちを修正主義学派と言います。

修正主義学派によれば、フランス革命では革命の主導者の多くが貴族や僧侶、法律家であり、ブルジョワジーや商人出身の革命家は存在しないとされ、しかも革命後も封建的な地主、小作制度が残りつづけ、資本主義の発展も停滞したと述べました。

修正主義学派として有名なのが世界システム論で有名なウォーラーステインです。彼は資本主義が反動的な貴族を打倒した結果であるとのイメージは根本的に誤っていると考えました。代わりに資本主義は自らがブルジョアジーになった地主によって主導されたものとしたのです。

ともあれ、辛亥革命もブルジョワ革命だったとされる疑問が呈されてもおかしくありません。早くから市古宙三も辛亥革命を「王朝革命」と考えました。辛亥革命は単なる政権交代に過ぎなかったとする説です。それによれば、辛亥革命は政治体制の変革は実質を伴わず、社会経済構造の変化もすぐにはなかったとのこと。

辛亥革命においても本当にブルジョアジーによって指導されたのか?中国ではブルジョアジーが成立していたのか?革命後も地主や郷紳、官僚軍人などが権力を保持し続けてたのではないか?など現在でも多くの点が議論になっています。

とある中国の研究者によれば

実際にブルジョワジーが指導するのがブルジョワ革命ではない。どの層を代表して革命を行ったのか。指導者が代表する社会層が革命後どうなったのかが大切である

とのこと。

このように辛亥革命の性格に関しては諸説が入り乱れています。ただ言えることは辛亥革命においてブルジョワジーが指導的な役割を果たしていないということです。

ではなぜ辛亥革命をブルジョワジー革命とする言説があるのか?それは中国共産党が描く歴史の中で政治的に必要とされたからではないでしょうか。

共産党が実行したと称する社会主義革命はその前段階でブルジョワ革命が必要です。そもそも社会主義革命は資本主義社会が最も高度な段階で発生するものだからです。共産党からすれば社会主義革命が自然に下から起こったとの印象を与えるために辛亥革命の時点で資本主義に向かう大きな波が来ていたとの事実が必要になります。

革命プロセスの概略

清朝、立憲派、革命派ー三者の関係からみた革命の経緯

辛亥革命のプロセスは清朝、立憲派、革命派の3者の関係を確認すると見えてきます。ここでは大雑把に三者の関係がどうなっていたのかを確認していきます。

清朝はすでにアヘン戦争、太平天国、日清戦争などの内外の衝撃により体制は崩壊の瀬戸際にありました。国家財政は破綻し、国内のあちこちに租界が作られていました。国内に清朝の主権が及ばない地域が増加していたのです。

しかし、清朝はただ傍観していたわけではありません。改革をやって必死に生き延びようとします。その改革の目玉は立憲君主制を導入することでした。

立憲君主制の導入に清朝は積極的ではありませんでしたが、立憲派の圧力に押され、渋々同意しました。清朝としても革命派に対応するため立憲派と手を結ぶ必要があったからです。清朝は立憲派に反同盟・革命軍としての役割を期待していました。

立憲派の中心は官僚の一部や地主、商人、知識人など。彼らは清朝に完全に失望したわけではありませんでした。むしろ出来るだけ清朝を保存し、清朝の中でポストを得ようとしていました。しかし、立憲派もこのままではやがて革命が起こり、清朝が転覆すると考えていたため、改革を進めるために教育や啓蒙に熱心に取り組みました。

革命派を率いていたのは孫文などの民族ブルジョアジーでした。革命派は単なる改革ではなく、武装闘争を通じて清朝打倒を試みます。革命派にとって立憲君主制は民衆を欺くための政治的な欺瞞。そのため革命派は立憲派と鋭く対立していました。

各方面で対立が高まっている頃、清朝は決定的な失策を犯します。四川省にある民営鉄道の国有化を決定したのです。外国からの融資のために鉄道を担保にしたかったからでした。

この決定は非常に唐突で、中国の半植民地化に不満を持つ人々の蜂起を引き起こしました。清朝は武力で蜂起を鎮圧しようとしますが、この後に及んで立憲派は清朝とたもとを分かちました。

こうして革命派と立憲派の間に緩やかな統一戦線が生まれます。立憲派と革命派の間にできた統一戦線に各地の秘密結社が参加し、清朝は孤立していきます。結局、清朝は耐えきれず崩壊することになるのでした。

光緒新政ー土壇場での清朝の自己保存の努力

辛亥革命に至る前段階で清朝は最後の足掻きとも言える改革を行いました。それが光緒新政です。ここでは革命の前段階にあった光緒新政について解説します。

採用された諸改革

いつの時代も何もしないまま崩壊する政治権力はありません。最後の足掻きとして改革を行ってなんとか生き延びようとします。これは清朝も同じでした。

義和団事件によって半植民地となり、革命運動に脅威を覚えてからようやく清朝は革新的なプログラムを用意しました。これが光緒新政です。

この改革は広範囲に及んでいますが、五つの点を紹介します。

第一に立憲君主制の導入と国会開設の準備です。清朝の中では専制支配を続けるのは不可能で、このままでは革命が起きるとの認識が広がっていました。

1905年欧米諸国の議会政治を視察するために5人の大臣からなる派遣団を派遣しました。帰って来た視察団は西太后に

立憲君主制には3つのメリットがある。第1に皇位が長く安定する。第2に外患が次第に軽減される。第3に内乱を消滅できる

と進言します。立憲君主制を採用すると国家を強化することができると伝えたのです。こうして西太后は立憲政治を模倣し、実行する準備を行うとの詔勅を発表します。

しかしこれはあくまで準備。しかも準備期間に期限を設けることもしませんでした。さらに詔勅には

我が人民には知識がないため立憲政治を実行することはできない。まずは官僚制度と教育を普及し、財政を整え、軍事警察を整え、さらに若干の時間をかけてようやく立憲政治へとかじを切るタイミングを見定めることができる

と書かれていました。ここまで書いてしまうと西太后には元々立憲君主制へのやる気はなかったのかもしれません。ちなみに現在の中国の歴史教科書では西太后の詔勅は「人民を騙すための空手形に過ぎなかった」とされています。

第二に近代的軍隊の創設です。役に立たない旧式軍隊を入れ替え、新たに西洋方の軍隊を作ろうとしました。そのために日本の陸軍士官学校にもたくさんの留学生が送られました。

第三には警察の改革。次第に力を増す革命派を取り締まるためにも必要でした。

第四に教育制度の改革です。1905年には科挙制度が廃止され、新たな学校制度が打ち立てられました。それと同時に海外にたくさんの留学生が送られました。日本への留学ブームが起き、日露戦争の頃には日本国内には1万人近い中国人留学生がいました。

第五に産業の振興です。民族産業保護と外国人による投資や経営が保護されました。

以上の5点が改革の核になる部分です。清朝は軍事力の強化を図り革命に備えつつ、他方で立憲君主制への移行を準備します。さらに産業を振興して民族ブルジョワジーの支持を得ようとします。大胆な改革を歓迎する人はいましたが、この改革はたちまち困難を迎えます。以下、改革が迎えた困難についてお話します。

新政の帰結ー新たな抵抗の発生

光緒新政はすぐに大きな困難を迎えました。改革プログラムがあまりに不十分だと立憲派から不満の声が上がったからです。立憲派は直ちに立憲君主制への移行をするように求めました。

清朝も一定の譲歩を行って、1908年に欽定憲法大綱を発表しました。これは9年間を立憲君主制導入のための準備期間とし、その後、立憲政治を始めるとするものです。

しかし、それでも立憲派の人は反対。だらだらと時間を引き延ばせば伸ばすほど革命派が力を持つぞと清朝に脅しをかけました。速やかに国会と内閣を作れとする主張をするも清朝は拒否。これにより立憲派と清朝の溝が深まっていきました。改革が清朝の首を締めてしまいました。

しかも科挙が廃止されたことで権威を失った官僚たちが清朝に背を向けるようになりました。光緒新政にて科挙が廃止されたことは非常に大きな意味を持ちました。

科挙は6世紀末の隋代から続いた中国の官吏登用制度です。儒教の理念を備えた人間を登用するための制度で中国政治は長く儒教原理を中心とした政治が行われていました。

しかし科挙の廃止に伴い政治が儒教から離れると儒教に詳しい古いタイプの官僚たちは新しいタイプの官僚によって見下され始めます。

年々増え続ける日本への留学生たちや近代的な学校で学ぶ学生たちが欧米の思想を吸収して古い政治体制を変えようとしていきました。

また産業振興政策によって多くの商工業者が生まれ、次第に政治的発信力を増していきました。彼らはやがて革命か立憲君主制を主張するようになりました。

光緒新政に必要な膨大な資金を賄うため、この時期の民衆は多種多様な新しい税金を支払わなくてはなりませんでした。清朝はアヘン取引税や石炭税、油税、人力車税などを新設。この頃の税制は「税して糞に至る」と言われるほどでした。種々の重税に民衆は不満を蓄積させます。10年前には誰も口にしなかった革命の概念が次第に社会の中に浸透していきました。

立憲派

社会的背景

立憲派を率いるのは康有為や梁啓超などの戊戌の政変の結果、国外逃亡を余儀なくされた知識人たちでした。西太后は彼らに非常に強い警戒心を持っていました。

そのため国内にいる立憲派が力を持つようになりました。湯寿潜や湯化龍などがその中心となりました。立憲派は民族ブルジョワジーの政治的代表で、地主や地方官僚など様々な階層の出身者から成っていました。

彼らの目的と手段

立憲派にとって専制君主制を立憲君主制に置き換えることは目的よりも手段でした。立憲君主制を導入して清朝を存続させながら、重要なポストを開放し、産業の発展に有利な状況を作ろうとしていました。

清朝に対するアピール

立憲派が清朝に対して立憲君主制がいいとした論理とは1905年に日露戦争で日本が勝利したころから始まります。そこで立憲派は

日本が勝ったのは立憲君主制だからであり、ロシアが負けたのは先制君主制だったから。負けた専制君主のロシアは国内で革命まで引き起こしてしまったではないか。国家を防ぎ革命を出そうとするのが立憲君主制の実行のみだけである。

と主張しました。この主張に清朝は惹かれ立憲君主制への準備を行う詔書を発表します。しかし実現は先に引き伸ばされ、立憲派に大いに不満を抱きました。

清朝との対立

1908年に西太后は死去。そこでわずか3歳の赤ん坊だった溥儀が皇帝に即位しました。幼い溥儀に代わり、父親が摂政として権力を振るうようになりました。彼は地方長官などの権力を取り上げ、立憲派の反発を招きます。このことは革命を引き起こす点で大きな作用をもたらしました。

⬇︎続編に続きます!