【後編】清朝にピリオド!辛亥革命を徹底解説

【後編】清朝にピリオド!辛亥革命を徹底解説

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辛亥革命は2000年続いた中国の専制君主制を終了させました。この革命は他の革命とは異なり、旧政権の抵抗もなくすぐに革命が終了しました。なぜでしょうか。今回は辛亥革命の流れをより詳細に確認するとともに辛亥革命の歴史的な意義について検討していきます。

前回のまとめ

清朝は日清戦争の敗北や義和団の乱などで崩壊の瀬戸際にありました。清朝は危機感を持って行ったのが光緒新政でした。その目玉は立憲君主制への移行です。

このアイデアを提案したのが立憲派。彼らは清朝の延命させ、清朝でのポストを得ようと目論んでいました。この点で立憲派は改革派であり、革命派ではありませんでした。

清朝に完全に見切りをつけて、清朝の打倒を狙うのが革命派でした。清朝は立憲派と結んで革命派を潰そうとしますが、立憲派は立憲君主制の導入に渋る清朝に反発を強めていきました。

清朝は大きな失策を犯します。四川省の民営鉄道を突如、国有化すると言い始めたからです。外国からの資本の担保に利用するためでした。

これに対して、地方エリートや民族ブルジョワジーが四川省や湖南省などで反対運動を始めます。清朝は軍隊を派遣し鎮圧にかかります。とりわけ四川省では反対派に対して、軍が発砲。流血の惨事となりました。ここで立憲派が完全に清朝から離脱します。これ以降、立憲派は清朝を支持することはありませんでした。

これが前回の話の要点です。付け加えると光緒新政は清朝は自らが自らでその首を占める結果となりましたが、この一連の改革を高く評価する見方もあります。

この改革が生み出した多くがその後の中国の近代化に大きな影響を及ぼしました。例えば、文化、近代的学校、鉄道、電信、電話のネットワークなど。

これらがなかったら、中華民国時代の産業発展や経済成長はなかったと考えられています。光緒新政は清朝の延命には役立ちませんでしたが、その後の政権に十分な恩恵と発展の基礎を与えたのです。

革命運動の台頭

孫文と中国同盟会の成立ー革命集団の大同団結

革命派の先頭に立ったのが孫文でした。彼は広東省の貧農出身。12歳でハワイに渡り、政治や歴史、数学を勉強しました。香港に戻ったのち医学を学び、マカオで開業医となりました。しかし、彼の本当の関心は社会全体を治療する政治にありました。

1894年に再びハワイに渡った孫文は興中会と呼ばれる革命団体を結成しました。その翌年、中国に帰った孫文は広東省で武装蜂起を計画するも事前に探知され失敗。その後外国に亡命します。それ以降、孫文は諸外国を彷徨いました。その一つが横浜市山下町(現在の元町中華街)でした。そこで孫文はとある女子学生に一目惚れして結婚。この時、孫文は38歳でした。

海外を彷徨う中で孫文の評判は高まっていき、革命派のリーダーとなりました。孫文は現在の東京・ホテルオークラの敷地内で革命団体・中国同盟会を設立しました。これは当時、4つに分かれていた大同団結させたものです。ちなみにその4つとは広東興中会、湖南華興会、浙江光復会、湖北科学補修所です。

これが示すように革命派の実態は一枚岩ではありませんでした。それを何とか結びつけたのが孫文でした。

綱領ー三民主義

中国同盟会の綱領はかの有名な三民主義です。三民主義とは民族主義、民権主義、民生主義の3つから成ります。

民族主義とは西洋列強に従属する清朝を打倒して、民族の独立を回復すること。

民権主義とは主権在民の民主主義的な政権を作り出すことです。なおここでの民主主義とは自由と結びつく民主主義ではありません。孫文にとって中国で革命をやる目的は個人の自由を抑制し、国家の自由を確保するためでした。20世紀の中国革命家は自由の価値を高く掲げることはありませんでした。

民生主義は土地を国有化することで地主による土地の独占を防ぐことを言います。

革命派の限界

しかし、この革命派には限界がありました。3つの点を指摘しておきます。第1に同盟会の中心は知識人や学生、華僑の資本家、中産階級のブルジョワなどで農民などとの接点はなかったことです。彼らはその崇高な理念に基づいて人民を指導しないといけないと考えていました。

そのため革命派には民衆の要求を組み上げて、代弁する発想はありませんでした。結局、中国全土で怒っていた民衆による闘争との結合を妨げることになりました。

第2に綱領では反帝国主義の考えを明言しませんでした。革命派は欧米列強へのスタンスを中立にさせておく必要があったからです。中国同盟会としては清朝締結の条約は有効であり、外国人の既得権益は有効とされました。結果、同盟会が持つ革命的なインパクトが削られることになりました。

第3に民生主義の概念が曖昧だったことです。孫文は地主から土地を買収しようとしたのか地主階級を力づくで買収しようとしていたのかよくわかりません。前者であれば地主との妥協、後者は地主との対決を意味します。

一体何が孫文の本意だったかはいまだに議論が続いています。当時の革命派の人々は清朝の打倒を最優先にしていたために、三民主義をめぐって対立が表面化することはありませんでした。革命派の大団結は地主をどのように扱うのかどうかの重要な点が覆い隠されていました。

一連の失敗に終わった武装暴動

中国に帰還した孫文は各地で武装暴動を組織し始めました。一連の暴動はあまり周到に準備されておらず、出たとこ勝負の冒険でした。当然のように惨めな失敗が繰り返されます。

こうした武道暴動に重要なのは何と言っても資金。革命の指導者は組織や弁舌の能力だけではなく、資金集めに長けてなくてはいけませんでした。しかし、革命をやるための金集めに孫文は苦労します。

資金の大部分はハワイや東南アジアなどに住む華僑の送金が頼りでした。しかし、結局は資金がなくなり、孫文は欧米に資金集めの旅行に出かけます。しかし、資金はうまく集まりません。第10回目の暴動が失敗に終わり、彼は意気消沈。しかし、そこで辛亥革命が発生しました。

辛亥革命

発端ー武昌蜂起

11回目の暴動が長江中流域の武昌で発生しました。この暴動はとある革命グループが間違って爆弾を爆発させてしまったことから始まりました。この時だけはなぜか暴動がうまく行きます。

反乱があっという間に全国に広まり、湖南省、上海など全部で15省で清朝からの独立を宣言し、清朝は撃ち倒されました。武昌暴動の勃発を孫文はアメリカで聞きました。大急ぎで帰り支度を始めます。

孫文はその年の12月21日にようやく香港に帰還し、中華民国の臨時大総統に就任することとなりました。

革命派の中には経験に富み、革命の指導者になれる人物はいませんでした。そのため孫文は神輿に担がれたというわけです。

南京臨時政府が1912年1月1日に誕生。新国号・中華民国が掲げられ、臨時大総統に孫文、副総統に黎元洪が就任します。これは革命派と旧官僚、革命派による連合政権でしたが、かろうじて革命派が政権を握っていました。

なぜ革命は成功したか?

武昌暴動が始まった時点ではすぐに清朝が倒れるとは考えられていませんでした。ではなぜ成功したか?ここでは理由を2つ考えます。

民衆による地方的反乱の拡大

1つ目の理由はすでに民衆による全国に広まっていたことが挙げられます。反乱の主要勢力は都市の商工会社の低所得者、農民、労働者など。増税による生活の行き詰まりを背景にしていました。

増税の原因は光緒新政の費用や義和団事件などの賠償金を賄うため。この増税に耐え兼ねた人たちが各地で暴動を起こしていました。各地の民衆反乱のほとんどは孫文が率いる中華同盟会には指導されていませんでした。中産階級やブルジョワジーが構成する中国同盟会は大衆とは断絶していたからです。

中国同盟会が大衆と断絶していたため、辛亥革命には統一された指揮命令系統が存在しませんでした。つまり辛亥革命は単なる地方的反乱が全国規模でただ同時期的に起こっただけだったのです。

これにより辛亥革命は自然発生的に起きた側面を強く持っていました。革命派がバラバラだったため、清朝崩壊後にどのような社会をつくるかの合意はなく、新政府の迷走をもたらしました。

列強の動向ーイギリスの反乱と袁世凱

2つ目の理由に西洋列強の動向が革命に有利に作用した点があげられます。革命が勃発すると西洋列強はいずれも表向きは中立を表明していました。当時ヨーロッパは三国同盟と三国協商が対立していた局面。これらの国々は中国における既得権益の維持と他国を抜け駆けを画策していました。

日本は、武昌蜂起が始まるとイギリスに共同出兵を提案します。日本は隣に共和国ができるのはまずいと考え、立憲君主制の樹立を狙っていました。

革命運動が勃発した華中・華南に大きな利権を持っていたイギリスは革命派の刺激をしたくなく、出兵を拒否。イギリスは早々に清朝に見切りをつけて、袁世凱による混乱の早期収集を支持しました。

革命派も諸外国による干渉をさせたくなく、列強を刺激することがありませんでした。こうして革命派は西洋列強の介入を招くことがありませんでした。

1911年12月29日に孫文臨時大総統となり、1912年1月1日に中華民国が成立します。1912月2月12月には溥儀が退位し、清朝は消滅しました。

もし革命派が勝利を宣言してもまだ勝負はついていないと清朝がごねれば事態は非常に面倒くさいことになっていたはずです。しかし、そうはなりませんでした。これにはイギリスの動向が絡んでいます。清朝の統治能力に見切りをつけ、袁世凱の下で革命がお膳立てがされるようにイギリスが仲裁をしていたからでした。

仲裁の結果、清朝と袁世凱と革命派の三者でディールが行われました。その結果は皇帝が退位し、袁世凱が孫文に変わって臨時大総統に就任するというもの。

袁世凱は1912年3月10日に臨時大総統のポストに孫文に変わり就任しました。これは革命派にとって大きな代償でした。袁世凱による支配はすぐに新たな専制支配となったからです。袁世凱はすぐに南京から北京に政府を移してしまい、これが1920年台後半に軍閥割拠時代の幕開けとなりました。

帰結と歴史的意義ー革命による断絶と連続

新たな正統性原理は確立されたか?

まずは革命を通じて正統性原理の再構築ができたのかを検討します。政治学における革命とは政治構造と社会構造のトータルで急激な変化を指します。

しかし中国語の革命にはそのような意味はありません。革命とは元々儒教に関係する言葉。儒教の考え方では支配者が天命を受けた徳を受けた人物であり、その徳が失われると天命が革る。つまり支配者の交代が行われるとされました。

伝統中国ではその意味で王朝の交代=革命が行われてきました。王朝交代で非常に特徴的なのは支配者の交代があっても儒教的イデオロギー、科挙に基づく官僚制、常備軍などの支配体制には変化がなかった点です。

これは漢民族以外の民族が支配者になっても同じでした。新しい王朝が誕生してもシステムとそれを支える原理には変化がなかったのです。その意味で辛亥革命もそれまでの中国における「革命」とは変わりませんでした。

確かに三民主義の中の民権主義は新しい正統性原理のあり方を示してはいました。しかし新しい正統性原理と言えるまでの思想にはなりませんでした。あまりにも早くあまりにもあっさりと革命が成就してしまったからです。

その結果、革命派の中で新しい政治体制についての青写真はなく、それまでのシステムを受け継ぐしかありませんでした。しかも革命派が率いた新政府には権力の裏付けとなる軍事力がありませんでした。隙あれば西洋が権力を奪おうとしてくる時代に軍事力がないのは致命的です。

そのため革命政権は軍人・袁世凱と妥協せざるを得ませんでした。結果、当然のように袁世凱への専制支配へ。結局、中国における帝政がすぐに復活したのです。

まとめ:不思議な革命

辛亥革命は確かに中国で2000年続いた王朝を終わらせ、共和政国家が誕生するきっかけになりました。しかしその流れを見てみると組織的に革命活動が展開されたわけではなく、むしろ偶然の要素が多く詰まった革命だったのです。

2000年の歴史を終わらせるにはあまりにあっさりとした革命となりましたが案外歴史とはそんなものなのかもしれません。